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ドゥルーズ哲学と日常

(大層な題名ですが、酔いながらふらっと書く文章なのでさらさら読んでください。まる。)

小倉拓也の『カオスに抗する闘い』を先日、ようやく読み終えた。小倉さんの説明が凄く丁寧で、読み通るのに時間はかかったものの基礎的なドゥルーズ哲学の体系は理解した気でいる。若い頃から晩年までに至るドゥルーズ哲学の「秘密の一貫性」を「カオスに抗する闘い」を主題におきながら論じていくという、観客席からはドゥルーズ哲学のPromotion Video(略してPV)を見ているような本だった。

ドゥルーズ哲学における最大の特徴は超越論的なものの語りの批判であり、そこに常に経験を問いただしている。代表格のプラトニズム批判では、表象=再現前化の領野(オピニオン)から不動の同一性を排除することで下—表象的な領野(カオスモス)へと潜り、差異それ自体のカオスチックな運動から現象を観る。そのとき私たちは固定概念や規範的な考え、「誰か」の考えから独立して、ピュアに考えることができる。存在者から離れて〈存在〉の視点から観るということを「ダニが神」という表現が示してくれている。

そのような「情熱的」な思考は孤独なものである。言ってみれば、日常生活の上で、普通「そういうものだ」という前提で話を構築するはずのものを「そうなのか??」と問いただし、構築されるものを根底からひっくり返しお好み焼きみたく均しているようなもので、「生産性」なんてものも当然ありはしない。しかしそれが哲学というもののはずで、私はドゥルーズに着いていくし、これからもドゥルーズが考えていたことをもっともっと知りたいと思っている。それは私が「感覚として分かるけど日常的に見放している幼児の頃の感性のようなもの」をドゥルーズが紡いでくれているような気がしたからで、その意味で哲学は何も小難しいものでも大人びたものでもないと私は思っている。

私がそのような生き方を選んだことはさておき、それだけではどうやら生活はうまくいかないようにできているのかもしれない。生存上、私たちは金を稼がなければならない。学生なら学校に課されてた勉強をしなければならない。社会的に求められていることに応えなければならない。そんな「法」があちこちに撒かれていて、それに対して私たちは「応答する義務」はないが、「応答する責任」はある。悲しいことに。

私は職業は関係なく、哲学者という生き方を選んだ。専らドゥルーズ研究者というべきだろうか。しかし今でも、そしてこれからも、「何かしら」を要求されることがある。そんなときもちろん、考えられない事象に応答しなければならないことや中途半端な対話を強いられることもある。しかし、それは非本来なものでもない、結局のところただ差異の結果=効果である。私たちは存在者として生きている。私は存在者と〈存在〉を往復するシャトルランをしている。ナルシシズムを抱えながらパラノ的に存在者を果たし、独で〈存在〉を語る。その反復が私の理想像です。


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