「大切な場」を失った一人として
先日、コロナ禍での成人式をめぐる問題を見ていて、思ったことがある。
それは、「成人式なんて不要不急」、「こんなときに成人式なんて」とばっさり切り捨ててしまう大人の多さだった。
確かに、この状況下で成人式を行うのは適切ではないと思う。
けれど、彼らが簡単に切り捨ててしまった成人式は、一人の新成人にとってはずっと楽しみにしていた「大切な場」だったかもしれないのだ。
同じことは、オリンピックについても言えるかもしれない。
「オリンピックなんか中止しろ」という意見は決して間違っていないし、このコロナ禍では当然の意見と言える。
でも、オリンピックという舞台は、選手にとってはずっと目指してきた「大切な場」だったはずなのだ。
そこへ思いが至れば、「オリンピックなんか」とあまりにもあっさりと切り捨ててしまうことはできないような気がする。
* * *
コロナ禍のいま、たくさんの人が、「大切な場」を失っている。
たとえば僕にとって、それは旅だった。
旅に出ること、とくに異国へと旅に出ることが、僕にとっての「大切な場」だった。
日常に疲弊したとき、海外へと旅に出ることで、刺激と癒しを得て、また頑張ろうという気持ちになって帰ってくる。
ただの遊びだと思っていた旅が、いつしか大きな希望となり、生きる理由となっていった。
ある人は、「旅なんて不要不急だ」と言うかもしれない。
でも僕にとっては、旅は生きていく上でめちゃくちゃ必要なものだ。
いや、こういう表現の方が適切だろうか。確かに、旅は不要不急かもしれない。でも、不要不急のものこそ、人間にとって必要なものではなかったか。
僕にとっての「大切な場」が旅であるように、好きなアーティストのライブに行くことだったり、仲の良い仲間と遊ぶことだったり、誰もが人それぞれに「大切な場」を持っている。
ある人にとってはどうでもいいように見える場でも、別のある人にとってはそこが「大切な場」であることはあり得るのだ。
決して、この状況下でも「大切な場」を守ろう、ということを言いたいわけではない。
残念ながら、今は多くのことを自粛しなければいけないときだ。たとえそこが「大切な場」だったとしても、それが失われてしまうのは仕方がないことだと思う。
だからこそ、一人ひとりがもう少し、その「大切な場」を失ってしまった人に寄り添ってあげる気持ちを抱いてもいいような気がするのだ。
人はそれを「不要不急だ」とあっさり切り捨てるかもしれない。でもその人にとっては、それこそが生きていく上での支えであり、生きる力をくれる場であったかもしれないのだ。
ずっと愛し続けてきた、あるいはずっと目指し続けてきた「大切な場」が不意に失われるのは、とても悲しいこと。
命は大事。仕事やお金も大事。そして、これがあるから生きていけると思えるような「大切な場」だって、やっぱり大事なはずだから。
それを失ってしまった人を思いやる気持ちを、一人ひとりが持てるようになったなら、もっともっと優しい社会になれるような気がする。
旅の素晴らしさを、これからも伝えていきたいと思っています。記事のシェアや、フォローもお待ちしております。スキを頂けるだけでも嬉しいです!