赤い恩返し ロシアワールドカップ旅日記9
6月27日(水) カザン
目が覚めたのは10時過ぎ。ワールドカップ観戦の旅は睡眠不足になることが多いけれど、この日は移動がないので、たっぷり睡眠を取ることができた。窓の外を見ると、空は綺麗に晴れ上がっている。どうやら今日は、絶好のサッカー日和になりそうだ。
この日は韓国vsドイツの試合を観戦するが、試合開始は17時なので、それまでカザンの街をのんびり散策することにした。
駅からほど近いホテルの前を通りかかると、なにやらドイツのサポーターが大勢集まっている。どうやら、このホテルにドイツの選手たちが泊まっていて、彼らは「出待ち」をしているらしい。
僕も彼らに混じってしばらく待っていると、選手には思えない、中年の男性がホテルから出てきた。サポーターたちは歓声を上げ、チケットや手帳にサインをしてもらっている。
いったい誰なのだろう? 誰だかわからないけれど、これだけみんながサインをねだるということは、ドイツの有名人なのだろう。そこで僕も手を延ばし、その「有名人」からチケットにサインをもらった。
後で調べてみると、その「有名人」は、かつてのドイツの名選手で、今はドイツ代表のチームマネージャーを務めているオリバー・ビアホフなのかもしれなかった。もっと待っていれば、ミュラーやクロース、エジルといった選手も出てくるのかもしれなかったけれど、いつになるかわからないので、ビアホフのサインで「満足」することにした。
街を歩いていると、タタール料理のスタローバヤがあったので、ここで昼食をとった。肉とじゃがいも、玉ねぎが入ったタタール風ピロシキも、パン生地を揚げて蜂蜜を絡めたチャクチャクというお菓子も、みんな美味しかった。それはどこか、中央アジアの香りを感じさせる味わいだったかもしれない。
かつてレーニンも学んだという名門のカザン大学を見学した後、スタジアムへ向かうことにした。ワールドカップの楽しみは、日本の試合だけではない。世界の様々なチームの試合を観ることこそ、ワールドカップの本当の楽しみだと言える気もする。
韓国vsドイツ戦の舞台となるカザン・アリーナは、外壁が美しい巨大スクリーンになっている、斬新な造りのスタジアムだった。すでに、赤いユニフォームを着た韓国のサポーター、白いユニフォームを着たドイツのサポーターがたくさん集まっている。ただ、ロシアでの開催という地理的な要因もあるのか、ドイツからのサポーターが圧倒的に多いようだった。
ロシアのボランティアの若者たちとハイタッチなどで盛り上がりながら、スタジアムの中へ入ると、僕の席はバックスタンドの2階だった。それでも、ここもサッカー専用のスタジアムのため、日本の横浜などに比べるととても見やすい。
両チームの選手が入場してくると、バックスタンド全体がドイツ国旗の乱舞に包まれた。僕のいるバックスタンドはドイツサポーターが多く、黒、赤、黄の三色旗を、彼らが一斉に振ったのだ。それは、まだら模様の蝶がスタジアムをいっぱい飛んでいるような、うっとりする光景だった。
けれど、僕はこの試合で、韓国を応援することに決めていた。それは、「恩返し」をしたかったからだ。
つい4ヶ月前、僕は韓国の平昌へ、冬のオリンピックの観戦に出かけた。その慣れない土地で、旅人の僕を何度も助けてくれたのは、韓国のボランティアの若者たちだった。あの凍えるような寒さの中、彼らはいつも優しい笑顔で出迎えてくれた。あの旅もまた、温かい彼らのおかげで、素晴らしい旅になったのだ。
その彼らへ向けて、今日1日だけ韓国のサポーターになることで、「恩返し」をしたいと思った。たぶん僕は、冬の平昌でもらった恩を、夏のカザンで返したかったのだ。
17時、決勝トーナメント進出を懸けた韓国とドイツの試合がキックオフされた。
前半は、やはりドイツが押し気味に試合をしていた。けれど、韓国の守備が堅いため、なかなか好機を作れない。逆に韓国にカウンターで攻め込まれて、あわやというシーンもあるくらいだった。
ドイツに、いつもの覇気がみられない。僕の周りのドイツサポーターにも、だんだんと悲壮感が漂い始める。
その悲壮感がさらに高まったのは、後半に入って早々だった。それも、この試合ではなく、裏で行われている同じグループFのメキシコvsスウェーデン戦によってだった。なんと、スウェーデンが先制点を挙げたという。このままいくと、ドイツは意地でも韓国に勝たなくては、決勝トーナメントに行けなくなってしまう。
しかし、ドイツになかなか点が入らない。そんなうちにも、裏のスウェーデンはさらに得点を重ね、メキシコ相手に3-0としてしまう。これで、ドイツはますます窮地に追い込まれた。
そして、アディショナルタイム。韓国のコーナーキックのチャンス。と、ゴール前でボールを受けたキム・ヨングォンが力強くシュート。これがゴールへ突き刺さった!
……が、オフサイドと判定されてしまう。その瞬間、韓国のサポーターだけでなく、ロシアの観客からも、大きなブーイングが起こった。それに呼応するかのように、VAR判定が行われる。これはまさに、試合の行く末を左右するVARだ。はたして、どうなるのだろう……。
と次の瞬間、韓国のサポーターはもちろん、ロシアの観客も、今度は大きな歓声を上げた。韓国のゴールが認められたのだ! キム・ヨングォンへボールが渡る前に、ドイツの選手の足にボールが当たっていたためのようだった。
これで1-0。勝たなくてはいけないドイツは、GKのノイアーまで前に上がってきた。しかし、そのノイアーが韓国の選手にボールを奪われてしまう。そのボールを受けたのが、ソン・フンミンだった。ひとりで一気に走り込んだソン・フンミンは、誰もいないゴールへ、ボールを蹴り入れた!
2-0。それはまさに、韓国サポーターの歓喜と、ドイツサポーターの落胆が、交錯した瞬間だった。
試合終了の笛が吹かれると、韓国の選手も、ドイツの選手も、そのままピッチに倒れ込んだ。美しいな、と思った。勝った韓国のサポーターも、負けたドイツのサポーターも、みんなが立ち上がって選手たちに拍手を送っていた。もちろん、僕も。
結局、韓国もドイツも、グループリーグ敗退という結果に終わった。けれど、そんなことを吹き飛ばすくらい、素晴らしい試合だった。韓国とドイツのサポーターが、仲良く記念撮影をしてから別れていく。こういう光景を見たくて、僕はワールドカップへ来たのかもしれない……。
スタジアムの外へ出ると、韓国のサポーターが集まって、まるで優勝でもしたみたいに、大きな声で応援歌を歌っていた。韓国にとっては、ドイツ相手に、日韓ワールドカップ準決勝で負けた「リベンジ」をしたのだ。喜ぶのも無理はなかったかもしれない。
そんな韓国のサポーターたちに、通りすがりに声を掛けられた。
「おー、日本人!」
僕は彼らに、こう返した。
「おめでとう!」
そのとき、これで韓国の若者たちに対して、ささやかな「恩返し」をできたのかもしれないな、と思った。
夜は「FANFEST」の会場で、セルビアvsブラジル戦のパブリックビューイングを楽しんだ。ブラジルが2-0で勝つのを見届けると、帰りにまた、カザン・クレムリンへ立ち寄った。
すっかり見慣れてしまったけれど、今夜もモスクのブルードームは、青い宝石みたいに輝いていた。もっともっと、長居したい街だった。僕は別れを名残惜しむように、いつまでも、青く輝くドームを見つめ続けていた。
旅の素晴らしさを、これからも伝えていきたいと思っています。記事のシェアや、フォローもお待ちしております。スキを頂けるだけでも嬉しいです!