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旅はやがて、再び輝き始める ~乗代雄介『旅する練習』

どんな旅も、帰ってきたら、旅は終わる。

そうして旅にピリオドが打たれれば、旅はひとつの記憶として、心の中に定着する。

けれど、人が旅を思い返すとき、その旅の輝きは、必ずしもいつも同じではない。

旅が終わり、しばらく経ってから、思いがけない形で輝き始める旅もある。

そんな旅の不思議に触れられるのが、乗代雄介さんの『旅する練習』という小説かもしれない。

たまたま僕と同じ年の生まれで、同じ大学の出身だった。そして、「旅」を描いた作品だった。

三島由紀夫賞を受賞し、芥川賞の候補にもなったとはいえ、その偶然がなかったら、乗代雄介さんの『旅する練習』には出会えなかった気がする。

きっと、コロナ禍の旅を描いたロード・ノベルなのだろうと思っていた僕は、読み終えたとき、大きな衝撃を受けた。

いや、実際にその物語は、「コロナ禍の旅を描いたロード・ノベル」だった。

コロナ禍が始まった春の頃、サッカー少女と小説家の叔父が、住んでいる千葉県の我孫子から、アントラーズの本拠地である茨城県の鹿島まで、徒歩の旅に出る。

その少女・亜美が、鹿島でのサッカー合宿のときに持ち帰ってきてしまった本を返すためだった。

だけど、本当の目的は「練習」にあった。

サッカー選手を目指す亜美にとってはリフティングの、小説家をしている叔父にとっては風景描写の、すなわち「歩く、書く、蹴る」の「練習の旅」だったのだ。

2人は利根川沿いを歩きつつ、叔父は行く先々で出会う風景を書き、亜美はその傍らで自由にサッカーボールを蹴る。

途中、就職を間近に控えた女子大生のみどりさんとも出会い、3人で鹿島を目指して歩いていく。

そこにあるのは、ほんの数日間の短い旅だ。でも、その旅路の果てに、亜美も、みどりさんも、そして叔父も、大切なことを見つけていく。

この旅のおかげでそれがわかったの。まだサッカーは仕事じゃないけどさ、本当に大切なことを見つけて、それに自分を合わせて生きるのって、すっごく楽しい。
(乗代雄介『旅する練習』138ページ、講談社)

そして、鹿島の海岸で迎える旅の終わりは、とても美しく、どこまでも光り輝いている。

陽光に照らされた2つの青を行き来させるような調子の良さで、リフティングの音が絶え間なく響いている。(中略)願いをよそに、ただしなんだか願いの通りに姪っ子が育っていくのを、鳥でも見るように眺めるこの歓びを何と言えばいいのか、今もってわからないのだ。
(乗代雄介『旅する練習』163ページ、講談社)

この小説は、全部で168ページある。

たぶん読者は、小説の167ページまで、どこか安堵した気持ちで辿り着くはずだ。このまま物語も、穏やかにラストシーンを迎えるのかな、と。

しかし、その168ページ目、旅の真実が突然明かされることで、物語は思いがけない形で終わっていく。

その瞬間、きらきらと光り輝いていた旅のすべてが、一瞬でモノクロに変わってしまうような、強い衝撃を受けることになる。

あるいは、勘のいい読者なら、167ページまでの「旅」に、どこか不穏な香りを感じるかもしれない。

それでも、最後の1ページには、多くの読者が驚きに打たれてしまうように思う。

いろんなレビューを見ると、物語の終わり方については、賛否がくっきりと分かれている。

けれど、この思いがけない終わり方には不思議な力がある、と僕は感じた。

それは、長い「余韻」だ。

全168ページの物語を2つのパートに分けるとしたら、かなり奇妙だけれど、167ページまでの「旅」と最後の1ページの「衝撃」ということになる。

でも、この『旅する練習』は、本当は3つのパートに分けられる作品だと思っている。

3つ目のパート、それはすなわち、本を閉じた後の空白がもたらす「余韻」だ。

全168ページの物語を読み、本を閉じると、読者は不思議な「余韻」を彷徨うことになる。

あの春の旅で出会った風景が、いくつも思い浮かび、また消えていく。

そして、その長い「余韻」の果てに、ふっと気づくのだ。

一瞬でモノクロに変わってしまったあの旅が、再びきらきらと輝き始めていることに。

それは、167ページまでの「旅」で感じていた輝きとは、まったく違う種類の輝きだ。

だけど確かに、あの旅はもう1度、静かに光り輝き始める。

その「光」こそ、この『旅する練習』という小説が与えてくれる、ひとつの救いかもしれないのだ。

167ページまでの「旅」と、最後の1ページの「衝撃」と、本を閉じた後の「余韻」。

たぶん、僕がこの物語に共感するのは、それがただのフィクションとは思えないからだ。

旅を続けていれば、いつかそんな「旅」をすることもある。

旅という行為がもつ哀しみと、それ故の煌めきを、乗代雄介さんの『旅する練習』は教えてくれるのだと思う。

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