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その旅が終わるとき、本当の旅が始まっていく ~沢木耕太郎『深夜特急』

旅をする者として、そして旅を書く者として、ずっと憧れている作品がある。

沢木耕太郎さんの『深夜特急』だ。

香港からデリー、そしてロンドンへの旅路を描いたこの作品には、ちょっと不思議な力がある。

それを読むだけで、読者もまた、自然と旅に出たくなってしまうのだ。

沢木さんも、後にこんなことを書いている。

「沢木さんはひどい、私の恋人はあれを読んで旅に出ちゃったんです」
実際、『深夜特急』を読むと、なぜか旅に出たくなって困るというような話も、何度となく耳にするようになった。
(沢木耕太郎『旅する力―深夜特急ノート』232ページ、新潮社)

『深夜特急』は、著者である沢木さんが経験した旅を描いた紀行文である。

ところが『深夜特急』を読むと、読者もまた旅に出たくなってしまう。

いや、出たくなるだけでなく、本当に旅に出てしまう。

旅好きの人に会うと、『深夜特急』が旅に出るきっかけだった、と語る人はとても多い。

どうしてなんだろう。なぜこんなにも、『深夜特急』という作品は、人を旅へと駆り立てるんだろう?

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アパートの部屋を整理し、机の引出しに転がっている一円硬貨までかき集め、千五百ドルのトラベラーズ・チェックと四百ドルの現金を作ると、私は仕事のすべてを放擲して旅に出た。
(沢木耕太郎『深夜特急1―香港・マカオ―』10ページ、新潮文庫)

『深夜特急』は、「私」という一人称で語られる作品である。この「私」にこそ、人を旅へと駆り立ててしまう『深夜特急』の秘密が隠れていると思う。

当然ながら、『深夜特急』の主人公である「私」とは、著者である沢木耕太郎である。

もちろん読者は、著者・沢木耕太郎の旅として、『深夜特急』を読み始める。

元々のバックパッカーでもなければ、そこに描かれた旅は、決して身近なものではないだろう。

だから読者は、どこか新鮮な気持ちで、沢木耕太郎の旅を追体験していく。

しかし読み進むにつれて、不思議なことが起き始める。

著者・沢木耕太郎の旅に過ぎないと思っていた『深夜特急』の旅が、読者である自分自身の旅のように感じられてくるのだ。

横になると、星のスクリーンが覆いかぶさってきそうなほど間近に見えた。やがて、土の微かな温もりがシーツを通して体に伝わってきた。大地の熱にやさしく包まれ、緊張が解けていくにしたがって、何千人ものインド人と同じ空の下で夜を過ごしているということに、不思議な安らぎを感じるようになってきた。
(沢木耕太郎『深夜特急3―インド・ネパール―』89ページ、新潮文庫)

著者・沢木耕太郎の感動は、読者である「私」の感動でもある。

『深夜特急』の主人公である「私」とは、著者・沢木耕太郎であるばかりでなく、読者としての「私」でもあるのだ。

それを読んでいると、まるで自分自身が旅をしているような気持ちになれる。『深夜特急』にそんな感想が多いのは、きっとそのせいである。

その創作の秘密について、沢木さんはこんなふうに書いている。

大事なのは「移動」によって巻き起こる「風」なのだ。いや、もっと正確に言えば、その「風」を受けて、自分の頬が感じる冷たさや暖かさを描くことなのだ。「移動」というアクションによって切り開かれた風景、あるいは状況に、旅人がどうリアクションするか。それが紀行文の質を決定するのではないか。
(沢木耕太郎『旅する力―深夜特急ノート』213ページ、新潮社)

『深夜特急』の中で、主人公の「私」が頬に冷たさや暖かさを感じるとき、読者である「私」もまた、頬に冷たさや暖かさを感じる。

それを実現しているのは、旅をリアリティーに描ききる、沢木さんの筆致の凄さである。

そして『深夜特急』は、物語がラストに近づくにつれて、さらなる不思議を読者に与えてくれる。

旅は間違いなくここで終わるのだ。しかし、私にはここが旅の終わりだということがどうしても納得できない。どこまで行けば満足するのかは私にもわからなかった。ただ、ここではない、ということだけははっきりしている。ここではない、ここではないのだ。
(沢木耕太郎『深夜特急6―南ヨーロッパ・ロンドン―』94ページ、新潮文庫)

旅の終わりの戸惑いは、読者である「私」の戸惑いになっていく。

『深夜特急』の旅にも、もうすぐ終わりが訪れる。でも、終わってほしくない。主人公の「私」とともに、まだ旅を続けていきたい。

そして『深夜特急』という作品は、そんな読者の思いに共鳴するかのように、旅が終わるのではなく、旅が続いていくことを示唆して、幕を閉じる。

きっと、その瞬間である。読者としての「私」が、つまり架空の旅人に過ぎなかった「私」が、本当の旅人としての「私」へと、姿を変えていくのは。

『深夜特急』を読み終わるとき、読者として辿ってきた旅は終わる。もうその先に、新しいページはないのだから。

もしも読者としての「私」が、その先のページを捲りたいと思ったら、できることはひとつしかない。

自分自身が、世界へと旅に出るしかないのだ。

読者としての「私」が辿った『深夜特急』が終わるとき、旅人としての「私」が歩む『深夜特急』が始まっていく。

たぶん、『深夜特急』という作品は、読み終わった瞬間に、旅が終わるのではない。

読み終わった瞬間にこそ、自分自身にとっての、本当の「旅」が始まっていくのだ。

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僕もまた、『深夜特急』を読んで、世界へと旅に出た一人である。そしていま、ぽつぽつと旅を書いているのも、やはり『深夜特急』の影響だと思う。

そんな僕には、ひとつの夢がある。

『深夜特急』のように、見知らぬ誰かへと、「旅のバトン」を渡せる作品を書くことだ。

もちろん、沢木さんほどの筆力はないし、『深夜特急』ほどの傑作は書けないかもしれない。

でも、自分なりにもがきながら、旅を書き続けていれば、いつかどこかの誰かに「旅のバトン」は必ず届くと信じている。

沢木さんは『深夜特急』のあとがきで、こんなことを書いている。

もし、この本を読んで旅に出たくなった人がいたら、そう、私も友情をもってささやかな挨拶を送りたい。
恐れずに。
しかし、気をつけて。
(沢木耕太郎『深夜特急6―南ヨーロッパ・ロンドン―』272ページ、新潮文庫)

多くの旅人を後押ししたように、僕もこの言葉を胸に、また旅に出る。そして、旅を伝えていく。

きっと僕も、「ここではないどこか」を夢見る、『深夜特急』の乗客なのだから。

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(これがnote100記事目です!これからもよろしくお願いしますっ!)

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