見出し画像

14年前の旅がくれた「宝物」~山梨の小さなレストランの話。

10年前の秋の日、一冊の本を読んでいて、あれっ?と思った。

それは、沢木耕太郎さんが出したばかりの『ポーカー・フェース』というエッセイ集を読んでいるときだった。

沢木さんは一編のエッセイで、行きつけだという山梨のレストランについて書いていた。

あれっ?と思ったのは、そこに描かれたレストランが、その4年前、僕がたまたま訪れたレストランによく似ていたからだ。

中央本線の小さな駅の近くのレストラン。老人がひとりだけでやっている。一生懸命作っている音が聞こえるのに、なかなか料理が出てこない。けれど、出てきた料理は表情がゆるんでくるほどの美味しさ。

もちろん沢木さんは、レストランの名前は書いていない。そればかりか、山梨のどこの町にあるかも伏せている。

でもそのエッセイを読み終わった瞬間、僕は確信した。これは間違いなく、4年前に訪れたあのレストランだと。

沢木さんがよく訪れる山梨の町がどこなのか、それは他のエッセイを読んで知っていた。そこは、僕が4年前に訪れたレストランのある町だった。

とすれば、あの小さな町に、それもあの小さな駅の近くに、すべてがまったく同じようなレストランが他にあるはずがない。

旅先でたまたま立ち寄ったレストランが、大好きな作家の愛するレストランだった。思わぬ偶然に、僕は驚いた。

その小さなレストランを僕が訪れたのは、今から14年前、21歳の夏だった。

初めて青春18きっぷを買って、山梨へ日帰りの旅に出たのだ。

お昼どき、中央本線の小さな駅を降りた。どこかでお昼を食べたいなと店を探すと、駅の近くでこれまた小さなレストランを見つけた。

うら寂れた雰囲気で、お昼なのに客の気配もない。どうしようか迷った末、他に行く当てもないので、思い切って入ってみることにした。

奥から出てきたのは、ひとりの老人だった。どうやらこのレストランは、おじいさんひとりで切り盛りしているらしい。

席に着くと、洋食が並ぶメニューの中から、チーズハンバーグのセットを頼んだ。

でも、ここからが長い。最初のコーンスープはすぐ運ばれてきたのに、肝心のハンバーグがいつまで待ってもやってこない。BGMもかかっていなければ、テレビも点いていないので、奥で老店主がハンバーグをこねる音が聞こえてくるばかりだ。

もう永遠に運ばれてこないのではないかと思った頃、ようやくハンバーグがやってきた。

それを一口食べた瞬間、びっくりした。信じられないくらい、美味しかったからだ。お肉のとろけるような甘さ、そしてチーズとデミグラスソースが絡み合い、口の中で幸せが弾けるみたいな味わいだった。

こんな小さな町の、老人ひとりでやっているレストランが、こんなにも美味しいハンバーグを出している……。僕は静かに感動しながら、夢中でハンバーグを食べた。

最後に紅茶を飲んでいると、老店主がやってきた。

「今日はこちらへ観光にいらしたの?」

「はい。このあと清里まで行こうかと」

「あっ、清里!へー、清里、野辺山かっ」

「……?」

どこか不器用さのある老店主だったけれど、人柄の良さは伝わってきた。

帰るとき、老店主は照れくさそうに言ってくれた。

「楽しんでいってくださいね」

美味しいハンバーグを食べられて、そして全部で1500円ほどだったこともあって、僕は大満足してレストランをあとにした。

そのレストランとの出会いは、21歳の夏の思い出として、強く心に刻まれたのだ。

沢木さんのエッセイを読んだのは、その4年後の秋だった。

不思議な偶然に、僕は驚いた。あの思い出のレストランが、沢木さんの行きつけのレストランだったという偶然に。

町の有名店でもなく、口コミサイトで検索しても、まず上位には出てこない。

そんな知る人ぞ知るレストランが、偶然にも沢木さんの愛するレストランだったのだ。

そして思った。またいつか、あの老店主のレストランへ行きたいな、と。

その「いつか」は、2年後の夏にやってきた。

長野へ行く用事があり、途中で山梨のあの町へ立ち寄ったのだ。もちろん、すぐにレストランへ向かった。

でも、レストランは閉まっていた。ハンバーグの美味しいあのレストランは、店をたたんでしまったようだった。

ハンバーグが食べられないことよりも、あの老店主にもう会えないことが悲しかった。きっと沢木さんも、残念に思っていることだろう。

それが、27歳の夏のことだった。

……そしてこの秋、僕は8年ぶりに、山梨の町へ向かっていた。あの老店主のレストランへ行くためだ。

レストランの閉店を知った、すぐあとのことだったと思う。ネットでレストランのことを調べていたら、あの老人がまた店を開いたという話に出会った。

山梨の同じ町で、場所と名前を変えて、新たにレストランを始めたという。

すぐに行きたいと思ったものの、山梨へ行く機会をなかなか作れなかった。その頃の僕は、海外への旅で忙しかったのだ。

ようやく山梨の町へ車を走らせたのは、それから8年もの年月が流れた、この秋だった。気づけば僕は、35歳になっていた。レストランを訪れた夏から、なんと14年が経っていた。

老店主は元気だろうか。そして今も、美味しいハンバーグを出してくれるだろうか……。

その秋の午後、レストランの前に車を停めたとき、僕は少し緊張していた。14年ぶりに訪れるのだから、無理もなかった。

新しいレストランは、駅の近くではなく、美しい森の中にあった。まるで小屋のような、小さなレストランだ。

中へ入ると、あの夏と同じで、客の姿はなかった。そして厨房から、老店主が出てきた。

見慣れない客が突然来て、ちょっと驚いたようだった老店主は、もちろん14年分だけ年を取っていた。でも、あの夏に会った老店主ということはすぐわかった。

料理のメニューはだいぶ少なくなっていた。僕はその中から、秋から冬の限定だという、鹿肉ハンバーグを頼んだ。

やはりBGMもなければ、テレビもない静かな店の厨房で、老店主はハンバーグを作り始めた。その姿を見ていると、老店主が話しかけてきた。

「お兄さんはどうしてここへ来たの?」

「……前に、***の駅前でお店をやられてましたよね。そのとき、1度訪れたことがあって」

僕は話した。ある夏の日、たまたまレストランを訪れたこと。美味しいハンバーグが出てきて、思わずびっくりしたこと。あの味が忘れられなくて、今日またここへ来たこと……。

沢木さんのことを聞こうかと思ったけれど、それは伏せておいた。

やがて老店主は、チーズの入ったオニオンスープを運んできた。

「熱いから、気をつけて飲んでね」

スープを口に運ぶと、それは本格派のレストランで出てきてもおかしくない、味わい深い美味しさだった。

店内を見渡すと、駅の近くでやっていたときより、さらにレストランは小さくなっていた。スープが運ばれてからの時間が長いのは、あの夏と変わらない。

少し待ちくたびれた頃、ようやく鹿肉ハンバーグが運ばれてきた。さつまいもの天ぷらと大根も添えられている。

「食べてみてください」

さっそくハンバーグを口に入れると、鹿肉の旨味が口いっぱいに広がって、笑みがこぼれてしまう美味しさだ。ファミレス的な美味しさではなく、お肉そのものの味を引き立てる上品な美味しさなのだ。食べていると、体がポカポカと温まってくる。

料理を作る腕を休ませながら、老店主はいろんな話をしてくれた。

「駅前でやっていたときは、お客さんが多くてほんとに忙しかった。だから今はこの森の中で、メニューを減らして、少ないお客さんのためにやってるんだ」

お客さんの多くは、僕と同じようにたまたまレストランを訪れて、その味に惚れ込んだ人らしい。

「たいして綺麗でもない店で、どんな料理が出てくるんだろうと思って、お客さんはやってくる。それでこの料理を出すと、みんなびっくりする。その味の確かさがあったから、常連さんが今も来てくれるんだと思ってる」

かつて老店主は、東京や横浜のホテルでシェフとして働いていたという。料理の美味しさは、その経験があってこそなのだ。

鹿肉ハンバーグも、全部で1700円ほど。この美味しさを思えば、破格の安さと言えるだろう。

レストランを出るとき、老店主に言った。

「また近くへ来たら、寄らせていただきます。ぜひ長く続けてください。頑張って……」

そう口にしたあとで、「頑張って」という言葉は、老店主に相応しくない気がした。きっともう、ずっと頑張ってきたはずなのだ。

だから、最後にこう言った。

「これからは、のんびりとやられてください」

すると老店主は、おどけたように返してくれた。

「はい。のんびりとやります」

あの夏の日のように、ちょっと照れくさそうにしながらも。

不思議だな、と思う。

21歳の夏、たまたま入っただけのレストランが、14年が経った今、大切な愛おしいレストランになっている。

あの夏の日、レストランのドアを開けたことが、すべての始まりだった。

きっと、たった1日だけのあの旅は、今に至る「宝物」を僕に与えてくれたのだ。

沢木さんが今もレストランを訪れているかはわからない。でもなんとなく、訪れていそうな気もする。

その沢木さんはエッセイの中で、こんなことを書いている。

レストランの老店主はいつもとても嬉しそうに料理を持って出てくる。

沢木耕太郎『ポーカー・フェース』50ページ、新潮社

それは今も変わっていない。この秋の日も、老店主はなんだか嬉しそうな顔で料理を出してくれたのだ。

……あの老店主が、今も幸せにレストランをやっている。

そう知ることができただけで、僕もなぜだか、とても幸せな気持ちに包まれたのだった。

旅の素晴らしさを、これからも伝えていきたいと思っています。記事のシェアや、フォローもお待ちしております。スキを頂けるだけでも嬉しいです!