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ワクワク ホームステイこぼれ話 1    How Do You Do?

文字数: 17,668字

前書き

 この記事は、私の自費出版本2冊目の内容を追いつつ書く予定です。そのままというわけにはいきませんが、追加記事も見かけることになります。もっともこの本を読んだことがなければ、そんなことは分からないでしょう。
 自分の書いた本なので「版権」は自分が所有しているので気が楽です。手元にたった1冊残った最後の本を見ながら取捨選択し、加えて行くつもりです。この本(副題が「あるホームステイの記録」なのですが)は私がワープロを買ったばかりだったので、フロッピーディスクに原稿が入っているはずです。しかし、PCで読み取ることが出来ないことが判明しています。残念無念です。ワープロで原稿を印刷するだけで40分以上かかったことが思い出の一つです。ということで、PCには自分でキーボードを使って打ち込まなければなりません。ということは原稿通りでなくてもいいということになります。その意味で自分としては楽しみ一杯です。途中たくさんカットしたいと思っています。全部載せると膨大になるので。。。
 第1作目の自費出版本は、最初は大学ノートに小さな文字で書き込み、それを最終的には印刷屋に出すため原稿用紙に清書をする手間がかかりました。確か一日平均4,5時間使って10日かかりました。今でもその原稿用紙は大切に保管しています。
 書き始めたのが1990年3月19日、書き終えたのが4月20日、出版が7月20日というスピード出版でした。処女作も同様でした。丁度1年前の7月20日出版でした。書き終えたのが4月16日でしたから見事な年子です。処女作が1500冊、この2作目が1000冊でした。おかげで完売して、かかった費用を回収することが出来ました。
 では始めます。

書くにあたって

 この「書くにあたって」は一般的には「まえがき」に当たるものだ。私は出版本ではいつもこの表現を使って「まえがき」に変えている。一部それをここに記してみたい。「  」で囲っている部分がそれだ。段落が変るたびに「 を付けている。」は全体の引用が終わる時だけつけて、引用が終わったことが分かるようにする。しばしば使うこの手法で引用の可能性があることを知っていると便利なのだ。

 「豚もおだてりゃ木に登る。
 「昨年、処女作を出版した時には考えもしていなかった第2作目は、おだてのなせる業だと思っています。
 「次々とワープロを買っていく同僚を見ながら、自分はワープロを買う最後の人間だと思ってきました。その私が、3月19日にふとしたはずみで嫌っていたはずのワープロを、衝動買いしてしまったのです。
 「その日が、この2作目に取り掛かる初日になるとは思いもよらないことでした。
 「練習のつもりでキーをたたいているうちに、勝手にのめり込んでいく自分を抑えることができずに、フロッピーに文字が覚え込まされていったのです。
 「前作を読んでくださった多くの方々から過分な励ましをいただいたことが、この本を書くことになった潜在的なきっかけとなったことは否めません。木に登らせてくださったことに、感謝するばかりです。
 「処女作は、題名通りの留学体験談でした。
 「今回は私の勤務先の学校のアメリカへのホームステイ企画を通して、別の角度からアメリカ社会を見つめてみました。
 「わたしがホームステイの下見ということで出張したのが1982年の夏でしたから、満8年を迎えようとしています。 今夏には5度目のホームステイが行われます。
 「生徒たちは考えている以上の経験をします。その人のアメリカ観を、あるいは母国観を変えるかもしれない事件なのです。そんな生徒たちの心の動きや経験を、同行した私の目で語ってみました。
 「自分のアメリカ家庭での生活体験、そして自宅にアメリカ人高校生にホームステイしてもらった経験が脇を固めます。
 「こんな大それた船出をさせてくださった全ての方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。」

1.ハウドゥーユードゥー

 この項目では、特に書かない。パスをするのだ。それというのもこの部分は既に「黄色いラッパ水仙」の「1 ホストファミリーとの対面」で既に扱っているからだ。この記事を読めば、ホストファミリーとの最初の対面の場面の緊張や思わぬ体験を見学することが出来る。

2.不  安

 ホームステイの目的地であるDenverへ出発する約半年前、生徒たちはウキウキした気持ちをはっきりと表情に出して、自分の担任教師に、ホームステイ参加申込書を提出しにやってきた。
 しかし、彼らの胸の内を覗いてみると、必ずしも嬉しさだけが一杯というものでもなかったようだ。彼らの心は揺れ動き、時にはホームステイのプログラムに参加することにしたのを悔いているように思える者もいた。
 職員室に2,3人の生徒が入って来る。教えたことのない生徒たちだ。そのためか、なかなか口を開かない。もじもじして時間ばかりが過ぎて行く。
 「どうしたの。早く言いなさい」
 「どうする? あんたが言ってよ。あんたが最初に言い出したんだから」
 「・・・・・・」
 「私たちの英語で通じるでしょうか」
 「通じるわけがないよ。でもね、一生懸命に努力しさえすれば何とかなるんだから、今でないとできないことをきちんとしておきなさい。少しでもたくさんの英会話を覚えること、このことを心がけておくのが一番大切なことです」
 「はい、頑張ります」
 彼らは、不安と期待が交互に行きつ戻りつするようである。まだ見ぬ外国、それもアメリカを思う時、その憧れの国に早く行きたいと、期待に胸を膨らませるのも無理はない。しかし、 自分の英語力のことを考えると絶望的にもなるのだ。

 そう言えば、このホームステイの企画の数年前に、私の家族もこれに似た経験をしている。その年の2月、3月は、時間が絶つのを何と遅かく感じたことか。前の年に我が家にホームステイをしてもらう計画を子供たちとみんなで立てていたのだ。そして、アメリカから長男と同じ年の女の子がやって来ることに決まっていたのである。
 4月になるとすぐに、そのアメリカからの女生徒が来ることになっていた。どんな人だろうか。手元の書類から、彼女がそれほど大きくないことくらいは分かっていたのに、もしとてつもなく大きい人だったらどうしようか、とか、大して問題にする必要のないようなことをあれこれと思い巡らしていたように覚えている。
 私の2人の子供たちにとっては、期待だけが先走りしていたのではなかろうか。妻にとっては、分からない言葉を話す人と台所で過ごすことが多くなるのではないかという不安が、かなりあったと思う。
 「私は徹底的に日本語で押し通すからね。日本文化を学ぶためには、必ず日本語を覚えることからしないといけないから」
 「もちろんそれでいいと思うよ。英語の部分は、私の役目。日本語と家庭生活についてはそちらの役目。もし学校生活や何かで悩んだりしたら、その時は子供たちの出番だ。皆で家族同様の接し方をしさえすれば、少々の問題は何とかなるものだからね。あとはホームシックにならないように明るく接するだけ」
 ナンシー(仮名)というそのアメリカからの女の人は、当時中一になる娘の部屋で同居する予定になっていた。僅か一年間だけのことだったので、知り合いに頼み込んで、家具屋さんから二段ベッドを譲ってもらった。一年間のホームステイ期間中の学校は、私の勤務先に通わせてもらうことに決まっていた。制服も卒業生に借りることができた。あとは自然体でいくよりほかに手はない。

 私自身の初めてのホームステイ体験は、26歳の時だった。初めてアメリカの家庭に入っていった、と言っても、その過程は私の2通年上の兄のうちだった。この文で始まる経験談は、やはり「黄色いラッパ水仙」に載せてある。「2 私のホームステイ体験」を見ていただければ同じ書き出しで始めている。

3.レター

 生徒たちはこの時期になると、頻繁に職員室にやってきた。ホストファミリーに、自分についての情報を書類に書き留めるためである。特に作文のような形で、家族のこととか、自分のこと、生活の中で大事にしていることなどを書く時には、よく出向いてきた。
 彼らの英語は、最初の予想通りにひどいものだった。しかし私の仕事は、その英語を直すことではない。彼らの英語力をできるだけ生かっくにホストファミリーに伝えることだ。それをしながら、彼らの伝えたいことがわかる程度に、その外国語を英語に近いものにするのである。
 どの生徒の文からも、彼らの一生懸命な気持ちが伝わって来るから不思議だ。こんな英語で分かるわけがないなどと思いながら、綴りのミスを直す。何のことやらさっぱり分からない部分は、勝手に推測して下手な英語に直す。あまり真剣に英語を書き直すとホストファミリーには読みやすいが、英語が分かるのだと誤解されることになる。そんな誤解をされることになれば、生徒が姪ワックスる。英語が分からないのが本当のことだから、英語はひどい方が良い。だから私のすべきことは殆んど何も無いようなものである。
 希望者40数名のパスポート申請手続き。なかなか大変だ。この当時は初めての生徒が多かったからだ。初めて手にする真新しいパスポートの香り。そのパスポートにサインする手が緊張しているのが、はた目にもはっきりとわかる。
 パスポートを手にすると、ますますホームステイに現実味が増してくる。その頃には、既に何人かの生徒のところにホストファミリーから手紙が届き始めている。手紙が来たと言って喜んでいる生徒がいるかと思えば、まだ来ないと言って、自分はホストファミリーから歓迎されていないのだと、思い込む生徒もいる。不安のなせる業だ。
 手紙を手に職員室にやって来る。ホストファミリーからの手書きの手紙を読むのは、結構難しい。今はメールでやり取りするのでそんなことはない。日本人の書いた英語の文字は、とても読み易い。それに比べて、アメリカ人の書いた文字は、人によっては判読がひどく困難なことが多い。

 ミシガン大学大学にいたときにに、一人の女性の先生がいた。彼女は他の先生のように、宿題をタイプして出すということはなかった。いつも彼女の手書きだった。私たち学生がまずしなければならないことは、その手書きの文字の解読だ。その解読にずいぶん時間をとった。解読できなくて問題に取り掛かれないbくぁあいもあって、焦りだけが襲ってくる。その先生にはとにかく苦労させられた。でもあのなぐり書きは私を強くしてくれた。苦労が人を弱くするのは、それから逃げようとする時だ。

 「先生、この手紙を訳してください」
 私は概して生徒に対して極めて不親切だった。そのことを自分の教師としての信条にしていたほどだ。そうすると生徒は嫌でも自分で考えて取り組まざるを得なくなる。そこに生徒も成長するチャンスに恵まれる、と勝手に思い込んでいる。
 手紙がこない生徒が不安がよぎる。手紙が来た生徒たちが、その手紙を持ってくるのを見るからだ。
 「先生、私にはまだ手紙が来ません。もしかして私は歓迎されてなくて、無理やりホストファミリーにさせられたんじゃないでしょうか。それだったら向こうに行っても、楽しくないと思うんです」
 「心配しなくていいよ。私にだって手紙の”て”の字も来ていないんだから」

 私は他の教師のように自分のことを「先生」とは言わない。自分のことを「先生」という「先生」の気が知れない。幼児たちに対して使うのは仕方ない面がある。しかし、小学生中学年いじょうになるとその人が「先生」かどうかは識別できるようになる。とは言え、自分のことを「私」という教師は極めて少数派だ。「私」でなく「俺」もいるが同じことだ。(こんな屁理屈は本には書いていない)

 「世の中にはいろんな人がいて、手紙をすぐ書く人もいれば、書くのが億劫な人もいるんだから、手紙など書く気にもならない人がいたって不思議じゃないよ。手紙を書く人が親切で、書かない人がそうでないということにはならないのだから心配いらないよ」
 メールのない時代は、こんなことが気が気でなかったのだ。
 まだ手紙が届いていない生徒を慰めたりしながら、自分も手紙がこないことが気になっているのだから、始末が悪い。
 この年のホームステイエリアはDenver近郊のオーロラというコミュニティーだ。そんなに大きくないコミュニティーだと感じていた。コウオーディネイターはキャバーサスさんで、現地側の責任者だ。生徒からの英語による自己紹介や自己PRの書類が彼女の手元に郵送される。彼女はそれを元にコミュニティーの新聞に広告を出す。40名弱の応募者がいたようだ。不足分は彼女の知り合いや友人を通して紹介をしてもらったとのことだった。だからマッチングがうまくいかなくて手紙が届くのが遅くなったケースがあったらしい。
 ホストファミリー探しでコウオーディネイターが最も苦労するのは、引率教師と、添乗員の家庭を探すことだそうだ。受け入れ家庭としては大人よりも生徒の方が受け入れやすいに決まっている。キャバーサスさんの場合は、日本からの書類を家に持ち帰ると、ご主人がそれに興味半分で目を通したそうだ。そしてその中の一枚を取り出して、この人を自分の家で預かろうということになったそうだ。これは行ってから聞いた話である。それが私だったのである。
 キャバーサスさん一家がとても自分によくしてくれるので、何故なのかと私が聞いた時に話してくれたのだ。
 「主人があなたの自己紹介を読んで、こいつなら気が合いそうだよて言ったのよ。だからあなたがホストファミリーが決まった第一号ってわけ」
 添乗員(男性)の方は最後まで決まらなくてとても困ったそうだ。彼女は友人に掛け合って、その家に泊めてもらうことにしたのよ、と言って笑った。チェリーさんというその人は、とても陽気な人で気さくだった。
 チェリーさんは副責任者という役目を引き受けていたようだ。彼女も私たちにいろいろと便宜を図ってくれて、大いにDenver滞在を楽しませてくれた。
 手紙に関して言えば、チェリーさんはついに添乗員の方に出さずじまいだったそうだ。私はというと、出発間際に滑り込むようにしてキャバーサスさんからの手紙を受け取ったのだった。手紙が届いた時、確かにほっとしたのだが、同時に返事を書く間がなかったことを喜ぶ気持ちも無いではなかった。

4.しばしの別れ

 もう涙を流している者がいる。さすがに恥ずかしいのかやや照れ気味である。こんなところで涙とは、と少しうんざりしながら、でも女の子らしくていいやと思う。そしてその生徒をやり過ごして先に行く。
 空港での、親子のしばしの別れの場面だ。
 私の17年前の別れの場面も、同じ空港であった。飛行機に乗るのも初めて、外国に行くのも初めてであったから、大部分の生徒たちと同じだ。
 成田行きの飛行機への搭乗時間を待つ間、生徒たちの気持ちを一人でそっと探る。
 私の姉の場合は、飛行機が今では考えられないような高い値段だったので、横浜からカナダのバンクーバーまで船を利用した。貨客船だったそうだ。私は送りに行っていないので詳しくは分からない。想像するに、送る方も送られる方も、ただ涙、涙の別れだったらしい。
 このプログラムの25年ほど前に乗ったことのある青函連絡船でさえ、港を出る時に一種独特の寂しさが一面を覆ったものだ。自分は誰と別れるのでもなく、この時も一人で旅をしていたのだ。大学生だった。札幌にある北海道大学のクラーク記念館で、全国英語弁論大会で九州代表の1人として、発表するためである。
 船の別れと比べれば、飛行機の別れは実にあっけない。新幹線でさえ、その別れの時にはほんの暫くの間でも一緒に走ることによって、その別れを重厚なものにすることが出来る。
 飛行機の別れも、時代と共に変化してきた。目的の飛行機に搭乗する前に、確かバスで滑走路近くまで行ったものだ。ホームステイの引率の時は、バスか新幹線にでも乗るかのようにいきなり飛行機の中だ。
 分かっていながら、あまりの虚しさに舌打ちをしたくなる。科学の進歩によって、私たち人間は、人間として大事にしておきたい心の情緒を、深く感動する心を、どこかに置き忘れてしまったのではないかと残念に思う。そして、たまに飛行機までバスで移動する局面に会うと、いたく感動したりする。
 生徒の親たちは、ほとんどの場合、子供たちを文字通り手の届かないところに初めて送り出すのだ。心配そうなそれぞれの顔の表情に、それがよく表れている。
 生徒はと言いうと、ただただ喜びに満ち溢れている者がいるかと思えば、不安を隠しきれない者もいる。いずれにしても、どの顔にも多かれ少なかれ、興奮と緊張の様子をうかがうことが出来る。友達や親と話す声も上ずっている。

筆者の体験おすそわけ

 思い出せば、私が初めて渡米した時などは、そんなものではなかった。今でこそ誰もがたやすく海外へ流れて行くが、1970年ころには、飛行機に乗ること自体が大変なことだったのだ。ましてアメリカに行くなどとは、思ってもなかなかできることではなかった。
 送りに来てくれた父や妻、そして1歳になったばかりの長男と、何を話して良いか分からず、ただ無為に時間ばかりが過ぎて行く。父が、それまでに送り出したいろいろな人との別れのシーンの話をしてくれたことを、真剣に聞いた。その時に、姉との船の別れの話をしてくれたのだ。
 搭乗時間が近づくにつれて、だんだん緊張感が高まっていく。本当に自分がこれからアメリカに行くのかと、考えてしまう。何だか現実のこととは思われない。今にも見ている夢が覚めてしまいそうだ。誰にも気づかれないように、ちょっとだけほほをつねってみたのを覚えている。
 あと5分で搭乗手続きの開始だ。これが現実であることは、既に証明されている。チケットも手元にある。その最終目的地は、デトロイトとなっている。体中から血の気が引いて行く。乗り物に寄った時のような何とも知れない気分だ。別れの言葉を言わなければいけない、と思いながらも、口から出てくるのはたったの一言だけだ。
 「じゃぁ・・・・」
 「体に気を付けて・・・・」
 言葉が少なければ少ないほど、その別れは重くなるのではないかと思う。言いたいことが一杯あるから、それだけ言葉が出てこないのだろう。夫婦だから、家族だから、言葉にならない心の言葉を、お互い聞き取ることが出来るのだ。
 あの時の緊張は、何をもってしてでも表現しきれないほどのものだった。2度目の留学の時の別れとは、比べものにならない。人間は慣れることによって緊張を失い、その度合いに応じて、感動を失うものである。

生徒は若くてうらやましい

 初めて親元を離れる生徒と、そうでない生徒とでは、別れのレベルが異なる。生徒の顔を見れば何となくわかる。初めての顔には、かつての自分が感じていたのと同じ緊張の表情が見られるからだ。皆について行くのが精一杯だ。親の顔には子供の顔を映しえ居るのではと思えるほどの、似た表情が窺える。大人である分だけ、その表情をカムフラージュする余裕と技術が身についているだけだ。
 あんな両者の気持ちとは何の関係も無く、時間という魔物に生徒たちは引きずられて、搭乗口へと吸い込まれていく。親たちはすぐに私たちの視界から消えていく。
消えて行った途端に元気一杯になれるのが、若さの持つ魅力である。涙を流したはずの生徒でさえ、もう大きな、大きすぎる声で、興奮に任せて喋りまくっている。そんな姿を親に見られないのが、せめてものはなむけなのだ。
 彼女らの心ははやくもアメリカだ。英語を話せないことも、ホストファミリーとうまくやって行けるだろうかという不安も、どこかに仕舞い込んでいる。まだ見ぬアメリカの楽しい面だけが先走りしているのだ。

5.未知の国へ思いを馳せる

 ローラースケートを足に、ダウンタウンを走り回るアメリカの若者。ローラースケートがスケートボードであってもそれは一向に構わない。街角でブレイクダンスをする黒人の男の子。女の子であっても、大人であっても、それも構わない。真っ黒なリムジン。色が白であっても良いのだ。ちなみに真っ白なリムジンは意外とかっこいい。しゃれたドレスの婦人たち。かっこいいスーツのビジネスマンでも大満足だ。町並みを彩る様々な横文字。

 何かが起こりそうな予感に満ち溢れている国。日本にはないものが満載されているアメリカ。楽しい毎日が約束されている。どの一日をとっても昨日とは全く違うのだ。現に、前の日とは違う一日のエスカレーターに今こうして乗っているではないか。
 生徒の心の中は、こんな期待と、自分たちがその真っ只中に入っていくのだという夢の世界の現出に酔っている。飛行機の中の興奮度は100%をはるかに上回る。客の世話に余念のないスチュワーデス(今のキャビンアテンダント 下記の注参照)が、通路を行ったり来たりする。
 「あなたがたは中学生ですか?」
 「高校生ですっ」
 生徒の1人が、少しムッとして返事をする。
 「まあ、そうなの。小学生と思えるほどのはしゃぎようね」
 笑顔だ。訓練と練習に裏付けられている。見事な芸術品だ。しかし加工芸術だ。能面だ。その芸術的な笑顔で、彼女はその本心を私たちに伝えている。皮肉だということが相手にわかる笑顔だ。
 何時間飛行機に乗っていたのだろうか。機内アナウンスが最初の目的地、サンフランシスコが近づいたことを伝える。さすがに疲れ切った静けさに、再び火が燃え上がる。飛行機の窓際族は、みんなの羨望の的だ。一瞬にして、たくさんの顔に覆いかぶさられる。私にとって、上空から見るサンフランシスコは3度目だ。3度とも違う方向からの眺めだ。初めてのサンフランシスコは、ロサンジェルスの兄のところから飛んだ。2度目はホームステイの下見のための出張で、北のポートランドからだ。そして今度は太平洋のかなたからの飛来である。
 「ああっ、写真とそっくり」
 「本か何かで見たことない?」
 「ねぇねぇ、あれがゴールデンゲイトブリッジじゃない?」
 ベイブリッジだ。私は個人的にはゴールデンゲイトブリッジよりはこのベイブリッジの方が好きだ。こちらの方が何といっても、長いのがいい。2階建てというのがまたいい。上空から見ていると、天国への架け橋を連想したくなる。
 1989年(この企画の前年)の大地震で崩れたのがいまだに信じられない気持ちだ。
 ベイブリッジは何度か車で走ってもらった。運転するとどうだか知らないが、助手席に座って眺めるベイブリッジからの眺めは100万ドルだ。橋を越えた向こうには、何か素晴らしいものがありそうな気持になる。
 飛行機が着陸態勢に入る。シートベルトをしながらまた静けさが戻る。緊張と期待を表現する静けさだ。ヒソヒソ声。息を深く吸う呼吸の音。時折聞こえてくる小さな笑い声。眼下に見入る真剣そのものの眼。ついにやって来たのだ。憧れのアメリカはすぐ目の下にその大きな体を広げて待っている。 
 (注:スチュワーデスと言わなくなったのは、男性がスチュワードと言い差別的意味合いがあるとされた。そこでその女性形であるため使用を控えることが世界中で言われるようになったからだ。チェアマンも女性差別につながるとしてチェアパースンと言われるようになっている。)

6.第一印象  

 搭乗口を出ると、英語に溺れそうな雰囲気だ。自分たちよりも大きな人たちが、右往左往している。40数名が人の流れの中に吸い込まれて行く。キリンの中に紛れ込んだロバか何かのようだ。ゆっくりと大股で歩くアメリカ人。こせこせと回転数で補いながら歩く我々の一団。
 バゲッジクレイムだ。ベルトコンベヤーが動くのを待つ。
 ガタッ。  ジーッ。  ゴトゴト。
 ベルトコンベヤーの周りは既に人々で埋まっている。小学校の運動会のときの朝の場所取りのようだ。
 家族の代表が、朝早くゴザを持って学校に出かける。今の時代はゴザがテントになってしまった。運動場にはそんな使節がたくさん右往左往している。少しでも見よい場所を、家族のために確保するためだ。先を越された人は、来年こそはと歯ぎしりする。
 40数名もの一団は、そんなところではただ他人の邪魔になるだけだ。それでも何人かは、自分の荷物を取ろうと空しい挑戦をする。自分の荷物が、ベルトコンベヤーに乗って向こうからゃってくる。
 「よいしょっ」
 折角の挑戦も空しい結果となる。荷物が持ち上がるどころか、荷物に引きずられる自分の姿にあっけに取られる。仕方なく待機組のいる場所に身を潜ませる。多くの生徒は自分をしっかり把握しているのか、最初から手を出そうともしない。結局、力のある私とあと2,3人のもので40数個の荷物を取り上げることになる。(なんだ運び屋として雇われただけなのか)と考えなくてもいいことをつい愚痴っている。(こんなことをしていると腰を痛めtしまうぞ)と思って、なんとか腰に負担がかからないようにしようと努力する。
 全部取り終わるとバスだ。今度は空ではなくて、文字通り足を地につけての観光だ。
 生徒たちがバスに乗り込む。大きな荷物がバスの横に並べられる。バスの腹の中に荷物が飲み込まれて行く。飲み込ませるのは、バスの運転手と私たち男性だ。適当に手を抜いてしまう。もうさっきからクタクタだ。
 バスの中では、みんなは陽気そのものだ。バスからの眺めは、全てテレビの画面だ。心をときめかすものが、次から次へと映し出されて行く。バスの中は驚きと喜びの歓声に包み込まれる。
 丘陵に建ち並ぶ白いエキゾティックな建物。自分たちが、絵の中に吸い込まれてしまったような錯覚に陥るゴールデンゲイトブリッジ。夏にもかかわらず鳥肌の立つ寒さ。観光客でごった返す波止場。男女が抱き合う姿が強烈に印象に残るダウンタウン。
 どこもかしこも、夢にまで見たアメリカそのものだ。
 行ったものにしか分からないアメリカの本当の姿は、自然に接した時に、突然感動の海原に私たちを引きずり込む。
 その日に宿泊したのはコミュニティーカレッジのキャンパスだ。寮のたたずまいが実に落ち着いている。まるで林間学校にでも行ったような気持ちにさせてくれる。
 文字通り林立する樹木。数々の鳥の鳴き声。木の上を駆け巡るリス。朝には早起きをして散歩したものだけに姿を見せた鹿。キャフェテリアまでの10分ほどもかかる道。広大な敷地。

7.キャフェテリア

 キャフェテリアに並ぶ。
 アメリカ人学生の後ろに並ぶ。どうしたら良いのかが分からないからだ。前を見る。プレートにナイフやフォーク、そしてスプーンをのせる。それから食べるものを決める。後ろがつかえるから、ぐずぐずすることは許されない感じだ。
 私にとっては、5年ぶりのキャフェテリアでの食事である。まずい。5年前と同じだ。美味しくなくても食べるのが、1年間留学をしてきたキャリアだ。皿に乗っているもの全てを食べ尽くす。
 生徒はというと、全部食べているものは少ない。アメリカの大学のキャフェテリアの食事のまずさを皿の上に満載している。空っぽになった私の皿を覗き込んで、目を皿にする。
 「先生、よくこんなまずいものが食べられますね。信じられない」
 「空の皿を見ても信じられないなんて、その方がよほど信じられない」
 その生徒の皿には、食べ始めと同じほどのものが残っている。
 「食べられるものなら何でも食べておかないと、アメリカでは大変だよ。君なんかはきっと食べ物で苦労することになるからね。それが嫌なら、これからは嫌でも食べるようにしなさいよ」
 朝だ。
 いよいよ、目的のホームステイへ進軍だ。その前にすがすがしい朝の空気を満喫する。一歩歩くごとにアメリカの自然がほほをなでて行く。夏の寒すぎる朝の空気が心地よい。思いっきり深呼吸をする。
 このアメリカに留学している時、こんなにゆったりと朝の自然を楽しめるようになったのは、何カ月経ってからだったのだろう。朝早く、ムッとする暑さの時も、しびれるような寒さの時も、ロボットのようにただひたすら図書館に向かっていく自分の姿を、久しぶりに思い出す。
 キャフェテリアの朝食は、トーストとベイコンだ。そして、飲み放題のジュース類だ。
 前夜、一人の生徒が病気になったことを思い出す。当た芽がボーっとしている理由だ。
女性の添乗員が医者に連れて行く。生糸たちは各部屋で寝ているのだろう。しばらくの間話声が聞こえていたが、気が付くと、いつの間にか静まり返っている。アメリカの初日は、全てが目新しくて疲れたのだろう。
 ラウンジにいるのは我々大人だけだ。時折一人二人と病気の友達を気遣って、様子を見に来るものがいる。アメリカの医者はゆっくりとしていることを知っているので焦らない。話すこともなく同じところにいるのはつらい。
 

 「もうお休みになられて結構ですよ。私が起きて待っていますから」
 そう言われても自分が預かった生徒だ。時間は牛歩戦術を取って来る。それに対抗する私はいつの間にかうたた寝をしている。
 何時だったか覚えていない。車の音だ。午前様の女性たちのお帰りだ。
 「覚悟はしていましたが、待たされましたよ。待合室に待たされて、いくら経っても医者が出てこないんですよ」
 付き添いの女性の説明だ。病気の方はそれほどのことはなくてホッとする。
 「今から出来るだけぐっすり寝なさい。明日はいよいよDenverだから」
 その生徒はそれほど元気というわけではないが、とにかく何とかなりそうだった。私の近くで食事をしている。食事が終わったら荷物をまとめて出発だ。
 空港までのバスが来る。寮からバスまでは、だらだらした階段付きの登坂だ。荷物運搬人に変身する。重い。とにかく重い。バスまで運びながら、生徒の脚は千鳥足だ。できるだけ手伝わないようにするのが大変だ。見るに忍びない。

 バスまで荷物を運ぶ間、生徒たちはホームステイのことを忘れていたのだと思う。
 「いよいよやね、どうする?」
 「私、飛行機の中で復習するつもりよ。だから、手荷物の方に英会話の本と辞書を入れておいたのよ」
 バスに乗った途端に現実に引き戻される。それでも、最後のサンフランシスコの眺めに見入る。もう2度とここに来ることがないかも知れないのだ。
 アメリカで初めての都市に行くと、私はいつもそんな気持ちで過ごす。どんな小さな出来事も見失うまいとして気を付ける。そのおかげで他の人たちが気づかないことを覚えていたりする。たぶん、見るポイントが違うのだろう。随分前の卒業生だが、私の話やスライドを見て、先生はマイナー指向ですね、と言ったものがいる。当たらずとも遠からじである。
 飛行機に乗る。サンフランシスコでは僅か1拍しかしていないのに、もう何日が過ごしたような錯覚に陥る。そのサンフランシスコでの興奮は、1時間かそこらで鎮静化の兆しだ。寒気の候粉が、不安の訪れに取って代わられる。でもその不安に打ち勝ちに、日本から多額の費用を費やしてやって来たのだ。

8.スマイル

 Denverに到着する。
 とてつもなく大きな女性が、私の前に立ちふさがる。勿論見たこともない人だ。
 「日本の高校生引率の方ですか?」
 勿論英語だ。
 「そうです。迎えてくださってありがとうございます」
 勿論英語だ。
 さっきからキョロキョロして私たちを探し回っている風に見えていた人だ。何のことはない。私たちがお世話になるホームステイの現地責任者だ。コウオーディネイターだ。私のホストファミリーでもある。
 「ついてきて」
 勿論英語だ。
 本当に大きな身体で歩くそのスピードは速い。生徒たちは着いたばかりの緊張を味わう暇もない。
 その前にはバゲッジクレイムで例の荷物との格闘をしてきたばかりだ。まだみんなが集まらないうちに、フォスターさんは先頭に立って案内してくれる。荷物を持たない時と同じくらいの速さだ。みんな必死でついて行く。
 バスが待っていてくれる。運搬人の仕事を終えてバスに乗り込む。いいよだ、という空気がバスの中一杯に充満する。
 ホストファミリーの待つ場所へとバスはひた走る。サンフランシスコとは全く違った車窓風景だ。
 デコボコの激しかったサンフランシスコの街。鳥肌を呼ぶ寒さ。白い家々。丘からの眺め。
 どこまで続くかと思われるDenverの広々とした土地。はるか彼方に見渡せるロッキー山脈。高速道路のすぐ上で待機しているのが見られる飛行機。影が極端に少ない住宅地。
 バスが停まる。目的地だ。ホストファミリーとの待ち合わせ場所。
 ホストファミリーが迎えに来た生徒からバスを降りる。
 降りてくる生徒一人一人は、緊張を背負っている。その笑顔は凍り付いている。相手の顔を見上げる勇気もない。
 アメリカ人の家でうまくやって行けるだろうか。3週間という長さだ。体が硬直する。声も出ない者もいる。顔が引きつる。言おうと思っていた言葉が、フルスピードで逃げて行く。

 ドキッ ドキッ ドキッ。
 ホストファミリーの言葉が聞こえてこない。聞こえて来るのは自分の心臓の鼓動の音だ。だから、出てくる言葉はちぐはぐになってしまう。
 ホストファミリーは、生徒たちが何か言う前に短く話しかけてくれる。例外なくその顔を、ほほえみだけが占有している。緊張をほぐすほほえみだ。初めの挨拶が何であれ、問題ではないのだ。こんな時に言葉はたいして重要ではない。
 笑顔だ。笑顔は心のマッサージ機だ。
 ホストマザー、ホストファーザーの顔を見てニコッとしてみる。うまくいった。ホストファミリーの笑顔に出会う。自分がニコッとしたことを喜んでくれている。
 ホストファミリーだって不安だったのだ。
 コウオーディネイターから預かった書類によれば、英語が分からない子を預かろうというのだから、いろいろと心配するのだ。どんな子供だろうか、うまくやって行けるだろうか、意思が通じなかったらどうしよう、明るい子だろうか、食事は大丈夫だろうか、などが記載されていた。
 笑顔はそんなホストファミリーの不安も吹き飛ばす。お互いに笑顔が一番の解決策だ。
 アメリカでは、笑顔が事のほか大切だ。アメリカに一度でも行ったことのある人ならば、自分の知らない人たちでも笑顔を向けてくれて、心に陽がさしたという経験を少ながらず持っているのではないか。

 我が家の子供となったローリーは、意識して笑顔を作る。カメラが向けられると必ずチーズをする。写真用のスマイルだ。自然の顔を映すのは、並大抵のことではなかった。
 うしろからそっと近づく。
 「ローリーっ」
 カシャッ!
 振り向いた顔にシャッターを切る。
 「オーウ!」
 自然の顔が溢れる。まるで夕焼けの空だ。
 私は海水浴場の近くに住んでいた。
 夏の昼間は、文字通り砂浜が人で埋まる。日曜日に至っては、狭い道路に大小さまざまな車の花が咲く。赤。黒。白。グレイ。グリーン。ブルー。所狭しと並ぶ車に気を付けながら、自分の車を車庫に収める。
 夜は違った様相を呈する。花火だ。爆竹だ。人の叫び声だ。バイクやオートバイの爆音だ。そして屈託のない朗らかな笑い声だ。
 すぐ近くに我々の生活があることなどお構いなしだ。9時、10時は我慢するから、1時、2時はやめてくれ。それでも毎日毎日飽きもせず襲ってくる。よく考えてみると、毎日違う人たちなのだ。だからその日注意しても、次の日には別の人たちが襲ってくるというわけだ。解決策は慣れることくらいしかない。そんな芸当ができる人などいないことくらい分かっている。
 私が住んでいた家は、お金をかけずにいつでも花火が親しめるという特典付きの住宅であった。海岸に出てみる。広い砂浜のあちこちで繰り広げられる花火の共演を楽しむ。打ち上げ花火にこだわるグループがあると思えば、線香花火こそ、花火の原点後信じているグループもいる。だから、小さな子供を飽きさせることは困難なほどだ。
 夕暮れ時は、何といっても秋がいい。海岸に面した空き地に、たくさんの車が吸い寄せられてくる。臨時のドライブインプラネタリウムだ。
 ワシントンDCにあるスミソニアン航空宇宙博物館に行った時に、約30年ぶりにプラネタリウムに行った。映し出された夕焼けがとても美しかった。本当のことを言うと、疲れのためにそのシーンしか見ていないのだ。
 海岸に映し出される夕焼けは、スミソニアンのそれとは比べものにならない。たいそうな望遠レンズのカメラをじっと構える人も多い。
 刻一刻、夕陽の様相が変化する。自然が、私たち時間銀行にせっせと貯蓄している人間に、ほほえみを向けているのだ。時間の貯蓄が空しいことを教えている。そのほほえみは人の心を癒してくれる。
 これこそが笑顔の原点なのだ。だから、笑顔は言葉の壁をいとも簡単に乗り越えさせてくれるのである。

9.おみやげ

 ホストファーザーが車のドアを開けてくれる。うしろのトランクには、荷物が既に収められている。重たい荷物を平気な顔をして運び込む。
 車の中はパニックだ。手には冷汗。沈黙は恐い。かと言って、いろいろと聞かれるのはなおこわい。
 車が動き出す。
 肩にはホストファミリーのぬくもりが、まだ残っている感じがする。そのぬくもりは、笑顔と一緒になって、極度の緊張をオン湿布してくれたものだ。
 ペラペラ出てくる英語は凄いスピードだ。手だけではなく、背中にもドッと汗が出る。胸が、また高鳴って来る。
 更にスピードのある英語が続く。
 「これは分からん。ちっともわからん。どうしよう」
 一人でぶつぶつ言っていると、ホストファミリーの話すスピードにブレーキがかかる。ゆっくりした言葉。聞いたことのある英語。バスを降りた時に見たのと同じホストファミリーの笑顔。
 「つかれた?」
 「つかれました~」
 本当に疲れた。
 英語のスピードが落ちるにしたがって、外の景色がはっきりしてくる。
 生まれて初めて見る遠く地平線。アメリカの広さが目の前にある。車までその広さに合わせている。その空間を持て余す。ソシエホスト魔座pの大きさは、その広さにマッチしている。
 ホストファミリーの家までの道中は、生徒一人一人が違った経験をする。
 始めから難しいことを聞いてくるホストファミリーは、そんなにはいない。アメリカで初めて聞かれた英語が分かった時の気分は、最高だったのではないかと思う。中には、hストファミリーの英語の津波に飲み込まれた者もあったらしい。その津波も買空き分けかき分け、溺れる寸前に車が止まる。それまでにはホストファミリーも、生徒たちの本当の英語力を把握出来てくる。
 子供がいる場合には、英語が話せなくてもニコッとするだけで仲良くなれる。子供は好奇心の塊だ。子供を味方につけるに限る。
 「ワット イズ ユワ ネイム?」
 「マイ ネイム イズ ミリアム」
 話しかけてみる。答えが返って来ることの感動。自分の英語が通じることの喜び。次の質問をしてみる。子供は新しいお姉さんができた嬉しさを、恥ずかしそうに、はにかむ顔に表す。そうなればこちらのものだ。ホストブラザーやシスターが、確実に、このホームステイを成功に導いてくれるような気がしてくる。
 車を降りる。初めてのアメリカの住まいに入る。孤独が襲う時だ。もう英語教師はそばにいない。とも価値に聞くこともできない。教科書通りには決して話してくれない。自分の花絵sる英語は無きに等しい。その英語を総動員させる。
 無きに等しい英語力を助けるのは、日本から運んできたお土産だ。日本らしいものをと、親と何度もデパートに足を運び、あれでもないこれでもないと思い悩んだ末に買ったものばかりだ。
 そんな土産物をリビングルームに広げて、即席のフリーマーケットだ。どれでもより取り見取りだ。値段は格安。どれをとっても無料。とは言っても、アメリカに来る前に、すでにどれが誰のものかを勝手に決めてきている。それでもホストファミリーの喜ぶ顔で時間が過ぎて行く。スーツケースから次々と取り出す手は、まるで手品師のそれだ。スーツケースはドラえもんのポケットみたいなものだ。

折り鶴

 「ママ~っ、これ何~? こんなのみたことないよ」
 勿論英語だ。
 子供たちは、魔法のポケットかr出てくる一つ一つの品物に驚嘆してくれる。目を見ればそれがわかる。その目を見れば嬉しくなってくる。大成功だ。きれいな色のついた小さな紙を見て、これは何をするものかと聞いてくれる。
早速折ってみる。あまり知らないから、とりあえず鶴だ。つるを折る指先に皆あの目が集中する。好奇心でできた眼だ。折りながら不安になる。ホームステイのために、親からならって練習したのに、思ったように折れてくれない。それでも何とか形を成してくれる。
 「すごいね。かっこいいね。ねぇ、おしえておしえて。おりかたおしえて」
 ホストふぁまいりーが一枚ずつ色紙を手にする。臨時折り紙っ教室の開講だ。自分もビ器用なのにあ、アメリカの人はもっとひどいと驚いてしまう。冬の渡りに疲れ切ってしまったような敦賀、リビングを飾る。
 折り紙では、私にも思い出がある。
 ミスター・フォスターはエレキギターが好きで、バンドを持っていた。
 「私の夫はミュージシャンなのよ。テープも作っているのよ」
 今ならCDだ。
 私が日本を発つ直前に、ミセス・フォスターが送ってくれた手紙にそう書いてあった。私が彼らの家にホームステイを始めてから、1週間が経った。彼が音楽を奏でるのを一度も耳にしない。彼は医療機器の技師であった。
 水曜日の夕方。今から出かけるけれどついてこないか、と彼が誘ってくれる。バンドの合同練習だ、と言う。借りているスタ時をへ行くのだそうだ。家にいても面白くないからついて行くことにする。
 殺風景なスタジオ。中からは既に騒音が聞こえてくる。遅れたのだ。車から機材を持ち込む。とても重い。それを軽々と運ぶ。私がもった機材の方が重いのだろうか。フーフーいって運び込む。以前教会だったところをスタジオとして借りているようだ。初めての人たちと握手だ。それが終わると早速の練習だ。
 彼らの家族も来ている。子供たちが、広いがらんとしたスタジオを走り回る。その動きを押し止めることのできる母親はいない。一緒になって遊んでやる。練習の邪魔にならぬように気を配る。
 赤ん坊が泣きだす。仕方なく別室に退去だ。10畳ほどの部屋。ひんやりする。棚が1つ。真ん中にテーブル。棚には神が乱雑に入れてある。見ると大事そうな紙でもない。
 その1枚を取って、紙飛行機を作って飛ばしてみる。子供たちの気に入ったようだ。それをみんなが欲しがる。紙飛行機の飛行場となる。何機も飛んでいる。管制官はいない。衝突しても平気だ。
 飛行機に飽きると、鶴屋2艘舟だ。ここでも折り紙教室だ。母親たちが教えてくれと言うのだ。一折ひと折り丁寧に教える。子供たちも知りたがる。とても見ていられなくなり、結局全部私の作品だ。それでも自分で折った気になっている。その方が満足感があっていい。
 そうこうするうちに子供たちは疲れて寝てしまう。母親たちへの折り紙復習塾となる。敦賀おれるようになったと言って喜んでくれる。バンド練習の終わりと共に、折り紙教室も終了となる。何とか退屈しないですんだ。子供たちと、その母親にそっと感謝する。

完 「ワクワク ホームステイこぼれ話」

 




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