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たらちねの母

文字数:1812字

 たらちねの 母に教わりし 和歌うた披露
           兄の誇らしき さまに嫉妬し

 私の兄弟姉妹は合わせて6人だ。私の下には妹が一人いるだけだ。
 長兄からある日曜日の朝、母から和歌を習っていたという話を聞いた。1999年の10月のことである。
 この話は弟の私には強い衝撃を与えた。母が和歌を作っていたということを私が知ったのは母が亡くなってからのことであった。私よりも4つ年上の兄が母から和歌心を教わっていたということは初耳であった。
 母の日記には、多くの和歌がひっそりと記されているに違いないと思い始めたのは、このことがきっかけである。私などは、母の日記の存在も、母が亡くなってから知るといううかつ者である。早く日記を読んでみたいという気持ちを持ちながら、ある書物の共同出版直後の忙しさに翻弄されて、ようやく読み始めたのが西暦2000年の半ばのことであった。

   遺された 母の日記は 変色し
         夏の日差しに 泪噴き出す

   カプセルの 蓋を開けるごと おもむろに
          長兄の名が 初めのページに

母の日記は、見事に赤茶けていて扱いには慎重さを要した。少しでも折り曲げればぱらぱらと分解しそうなノートであった。おもむろに開けた最初のページの後半には6人兄弟のうちの2人の兄と姉と妹の名前が書かれてあった。
 私の誕生日は1944年3月13日であるから、日記に私が最初に登場したページが書かれたときは、私は3歳と6日目ということになる。2ページ目には長姉の名前も出現するのに、私の名前は依然として行方不明であった。

   この世にて 生まれし如く おのが名を
          発見するも 「食欲なし」と

    息苦し 幼きを 隣とし
           母の日記の 筆進まじを

 そのうちに私の名前を発見したのであるが、妹の次に自分の名前がしたためられていた。2歳年下の妹の病状が気になっていた母の心を垣間見て食糧難の時代に6人もの子どもを育てることの大変さが伝わってきたような気がした。
 本格的に私が登場するのはそこからさらに2ページを経なければならなかった。私が脇役から主役に踊り出たのは、4月1日であった。わずか3行しか書かれていないその日の日記の6割が自分のために割かれていたのである。

「〇を一寸起こしてやる。フラフラしてすぐたおれるので床上に坐らせてしばらくしてまたやすませる。」

 私は華々しい登場をしたかったのであるが、終戦2年半の日本を象徴するかのようにふらついていたのが印象的である。その自分が今その事実を振り返るまでに生き延びていることを不思議に思うほどである。

   父上が  リストラ間近に  不安顔
         母の日記の  証言しきり

 6人の子どもを育てるのは並大抵のことではない。私自身がわずか2人の子供を育てるのに経済的にも精神的にも苦労をしたことを思いながら、日記にしたためられている母の苦労に申し訳なさが沸きあがる。そんな母が船舶運営会に勤める夫の会社が解散すると言う風聞に脅かされていたことを、私は両親から話には聞いていた。しかし、いざ、その場面を切々と綴った日記を通して母の気持ちに直に接して見ると、その不安はいかばかりであったかと想像することもできないのである。現在はリストラの嵐が吹き荒れている。同じ不安を抱いている方々のことに思いを馳せるときに、母の日記が現実的に心につき刺さる。

   こどもらの  洗いしパンツが  とろけゆく
            食料すらも  手に入らまじ

 私には母の日記をこれ以上読み進めることが出来なかった。
私は孫たちにその生活の大変な様子を伝えようとしても、それが伝わることはない。
 「じいじの子供のときのお年玉は、(年齢+1)× 100 円だったんだよ」
 「誕生日は特別の日だったよ。何といってもゆで卵を食べられるのは自分だけだったんだからね。兄弟みんなが見る前で卵の殻をむく時、兄弟みんなの視線が快感だったね」
 「クリスマスプレゼントは何だったと思う? 新しい真っ白なシャツとパンツが一枚ずつ枕元に置いてあってね。朝目が覚めると、その白さが目に飛び込んできて、一緒に嬉しさが全身に入り込んできたもんだよ」
 こんなことで孫たちが「へぇ~」というわけがない。
 孫たちの反応をここで書く気力はない。


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