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おやじの裏側 xvi (16.家族と音楽)

オレのおやじは、家族写真とソノシートによる遺言作成が年中行事のように家族全員を巻き込んでいた
 
家族全員がそれをおやじと一緒になって楽しんでいたように思う。(子供時代は)オレも楽しんでいた。成長するにつれて、だんだんめんどくさく感じるようになっていたのだが、おやじもそれを感じていたのか、自分でも飽きてきたのか自然消滅をした。

ビーズアート作成初期の作品
その後に作成した別のバイオリンのビーズアート作品は
卒業生が欲しがったのであげてしまった

オレの家族は音楽が好きだ。しかし、何しろお金がない。習うお金がないのだ。勿論楽器など買えるわけがない。それでも何故か古いバイオリンや古いトロンボーンがあるにはあった。

長姉と音楽

長姉はオレと一回り年齢が離れている。
だから、オレが生まれた時はすでに小学校を卒業する寸前と言うことになる。
長姉は高校を卒業してからすぐに東京の牧師になる為の学校に行った。だから、オレは長姉のことをよく知らない。
 
覚えているのは、オレが中学に入ってから、英語の教科書を声に出して読んでいると、通りすがりに発音の間違いを直してくれたことくらいだ。
実はもう一つある。いや、もう2つある。いずれも中1の時のことだ。
 
2つともオレのいたずらだ。
 
多分長期休暇で戻ってきていたのだ。
オレは長姉から小遣いをもらいたくなった。
 
そこで、作戦を立てた。
(家族の噂で)姉が蝶々や蛾を怖がるということを知ったのだ。オレはそのどちらも平気で触ることができる。そして捕まえた。
大きな蛾を見つけたのだ。そして、姉を追い回した。
 
「小遣いをくれないと、この蛾を渡すよ」
 
容易いいたずらだった。
いくらもらったかは覚えていないが、兎に角収穫は手にすることができたのである。
 
もう一つも他愛ないものだ。
 
朝起きて思いついたものだ。
 
だから、準備は密かに行われた。
 
「お母さんがこれを飲みなさいって。風邪によく効くからって」
 
オレは長姉が風邪気味だということを前夜寝る前に耳にした。
 
「風邪はもう治ったのに」
 
オレは、母親をたてにその薬を飲むことを強要した。
 
長姉はその薬を一気に飲み込んだ。
 
後で、オレは母親からとても強く叱られた。
 
長姉は、薬を飲んだ途端に台所でそれを吐き出したのである。
薬を包んでいたのは、塩だったのである。
当時は薬は専用の紙に包まれていた。だから、薬はあっという間に口の中に滑り込む。
 
喉を通るときに、その薬の実態が分かるってわけだ。
相当量の塩を一気に飲み込んだのだ。
このいたずらは、許されたのか・・・!
 
この日は、4月1日だったことがこの事件の発端だ。
 
このいたずらは、新しい教会堂ができてからの話だ。
 
SG荘にいた頃は、長姉はまだ中学生、高校生だったから、毎日顔を合わせていたはずだ。
それでもあまり一緒にいた記憶が薄い。兄弟が多かったからだ。しかも一番離れた長姉と遊ぶことはないに等しい。
 
オレが長姉と話をするようになったのは、オレが教師として就職してからだ。その頃から、姉が帰郷するといろいろと深い話をするようになってきた。子供の教育相談みたいな話が多かった。オレはあの姉がオレに相談してくれることが不思議な感覚だった。
 
そんな中で、大阪の姉の家に泊まることも少しはできた。
そこにはオルガンが数台置いてあった。自宅でオルガン教室をしていたのだ。
オレの兄弟は、オレを除いてはみんな何らかの楽器を駆使していた。オレですら、家にあった古いバイオリンでギーコギーコと鳴らしていたほどだ。
 
そういった話の中で、姉がオルガンを弾くことができるようになった経緯を話してくれたことがある。
 
姉がオルガンなりピアノを弾けるようになったスタートの頃の話は忘れてしまった。彼女がピアノを弾く姿を思い出すとしたら、オレが高校生くらいになったころだ。新会堂にはオルガンが一つあったのだ。帰郷すると礼拝で讃美歌の伴奏に弾いていた。
 
姉が弾けるようになるために、一方ならぬ努力をしたことを母から聞いたことがあった。姉も同じ話をしてくれた。
 
楽器がないから、姉は自分で鍵盤を手書きで作って殆どエアピアノ弾きというかたちだったらしい。実際にその手書き鍵盤を見せてもらったことがある。使い古したせいか、ぼろぼろにバラバラと言う表現がぴったりの鍵盤だった。後ろ側には何度もノリで切れた場所を繕っている跡がしっかりとあちこちに残されていた。
 
この事実を知っていたからか、随分後になってテレビのある番組で一人の世界的なピアニストの話題が放映されていた時に、オレの目は画面にくぎ付けとなった。
有名なピアニストの名前はすっかり忘れてしまったが、その方がアメリカから東京に移動したときの話だったような気がする。彼は飛行機にいる間は、当然のことながらピアノで練習できない。超一流の方ともなれば、少しでも手を動かさないと演奏に影響が出るので、移動時間をどうするかが重要になるというのだ。
彼は、自作の鍵盤用紙で飛行機に乗っている間も練習しているということをオレは知ることができて、姉と同じだ、と思ったことがある。
 
新会堂ではオルガンはあったが、礼拝があるとき以外にオルガンで音を出すことは、隣近所の迷惑になるからと、おやじが強く止めていた。
 
新会堂にオルガンが得るようになるころには、隣近所に家が軒をそろえるほどになっていた。そこで音なしの練習となっていた。勿論、紙製ではなく、本物の鍵盤だ。リードオルガンの足踏みをしなければいいだけの話だが、姉は多分悔しい気持ちで練習していたのだろう。
 
結婚してオルガン教室を始めることができたのはその練習のたまものである。オルガンの数は5,6台もそろえていた。
 
今ならピアノ教室と言うことになっていたと思う、
 
 

おやじと音楽

おやじが基本的に楽器を鳴らすのを見た記憶は薄い。
 
そうは言っても、おやじが音楽が好きなのは間違いない。礼拝の時の讃美歌を歌う姿は様になっていた。一生懸命に大きな声で歌うのだ。信徒も一生懸命に歌うのだ。それを見ただけでも感動ものだ。
 
オレが子供の時のおやじは、何かと言うとオレたち子供全員にコーラスをやらせていた。
 
小さい時は、オレもそれを楽しんでいたのかもしれない。小学校では毎月誕生会があって、講堂で全生徒が集まって誕生月の生徒がその前に集められて楽しい時間が過ごされた。
一番前にだけ「ゴザ」が敷かれていた。誕生月の生徒だけが座れるのである。
 
オレはそんな時には、ボーイソプラノで独唱を頼まれてみんなの前で「カラスの子」などを歌った記憶が今も鮮明に残っている。
 
学年によっては劇も披露する。そして誕生月の生徒は最後に紅白饅頭がもらえるのだ。持ち帰った饅頭は、兄弟のいるところで、うまい、うまいと自慢しながら食べる。少しは分け合うが、独り占めしようと必死だ。
 
そういうわけで、オレは家族のコーラスは、信徒の前に出る恥ずかしさは置いといて、楽しんでいた。歌うのが好きだったのである。
 
SG荘から移転したころから、声変りが始まってボーイソプラノなどどこに消えたのかと思うほど低音になって、家族コーラスが嫌になっていった。それでもおやじは家族でコーラスをするのを辞めようとしなかった。
 
おやじと山に登るとき、オレはおやじがいろいろなことを教えてくれるのが楽しみだった。
 
オレが花より団子派であることを知ってかどうかはわからないが、道の側に生えている笹の新芽をつんではそれを口に入れる。オレも真似をする。薄いが甘い新鮮な味がするのだ。
庭のバラの新芽を手折っては、それも口に入れて軽く噛む。笹の新芽よりも少し濃い甘さが口の中に広がる。
 
オレも父親になった時に、子供たちと山に登り、道中笹の新芽や野イチゴ、キイチゴを見つけては一緒に食べて楽しんだ。アケビのある場所も探しては毎年その発見場所から収穫して、米櫃で追熟して食べたりした。
 
ところが、おやじは食べることだけではなかった。
 
ちゃんと楽の音を堪能するすべも教えてくれたのだ。
 
笹の新芽を食べ、笹の葉は「草笛」のための楽器に変身するのだ。
 
おやじはすぐにつまんで鳴らす。
 
オレは真似をしてもなかなか音が出ない。
それでもしつこくしているうちに、ふと高いきれいな音が出たりする。簡単な曲なら吹けるようになる。それは笹の葉だけではなく、庭の草でも鳴らすことができるから、楽器のない我が家ではみんなちぎって持ち帰った葉でピーピーうるさかっただろう。SG荘の隣に住んでいるお経のおじさんからクレームが来たことはない。
 

家族で合唱

この記事の最初にしるしたように、クリスマスなどの行事の時にはオレたち子供6人は、信徒の前で合唱をした。「した」というより「させられた」。
 
それがオレの家族の合唱の印象だ。
 
特に声変りが始まってからは、嫌で嫌でたまらなかった。でも、おやじに反発してまで拒否する勇気はない。他の兄弟は合唱が好きだったのである。
 
オレの母親は、72歳(9か月)の時に心筋梗塞であっという間に亡くなってしまった。
それは日曜日の朝だった。
おやじから電話だ。
 
「お母さんが倒れた。すぐ来てくれ」
 
これには仰天した。その時は家族で一番近くに住んでいたのはオレの家族だ。
 
オレはすぐにおやじの教会に行き、既に電話していた救急車を待った。そして、目の前で心臓マッサージをされる母親を見て、胸が衝かれた。長兄もやってきたが、亡くなってしまった。
 
おやじを車に乗せておやじが当時牧師をしていた教会に戻った。
 
実はおやじはSG荘の後にできた教会が生み出した別の教会で牧師をしていたのだ。
おやじは兄の車で元の教会に戻ったので、オレは、おやじが牧師をしていた教会で話をしなければいけなくなった。
 
母親の葬儀は、オレが中高大を過ごした教会でおやじの司式で行われた。
 
その葬儀で、慣例にもなっていた子供6人でのコーラスをするようにおやじに言われた。オレは内心嫌だったが言えなかった。
 
後に勤務先の同僚(彼は大学の先輩だ)から言われたことがある。
 
「○○さん、コーラスの時嫌そうだったな?」
 (「○○さん」というのは、オレのニックネームの一つで、教師仲間が使っていた。中には生徒が使ったりする)

オレがいやいや歌っていることがばれてしまっていたのだ。
 
後におやじがなくなった時、兄が牧師となっていたのだが、同じようにコーラスを提案してきたが、オレは即断った。オレのファミリーコーラスの歴史は無事終了したのである。


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