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行方不明のスーツケース 2

私が二度目にスーツケースを手にすることができなかったのは、一度目と同じシアトルだった。

頼りになるのは、スーツケースを預けた証拠となる小さな紙切れの預かり証だけだ。

これは私にとっては大変なことだ。衝撃だ。不安だ。
 
たくさんのスーツケースを運ぶバッゲージクレイムのベルトコンベアー。必死で凝視しても、自分のスーツケースが見当たらない。
引き取り手のいないスーツケースが置いてある場所を探しても見当たらない。
 
とうとう我慢しきれず、係の人に探してもらっても見当たらない。
ただの旅行なら、どこかで着替えを買えば何とかなるが、シアトルからシカゴまでの飛行機に乗り換えないといけないのだ。その目的は・・・一年間の留学だ。貴重な書類も入れていたから困ってしまった。
 
そうこうしているうちに、シアトルからシカゴまでのフライトは飛び立ってしまった。
何故かというと、シアトルでスーツケースを受け取って税関で入国審査が待っているのだ。
 
「荷物はそれだけかい?」

軽い手荷物だけの私に向かって、審査官が笑っていた。
 
私のビザがI-20(アイ、トゥウェンティー)だったからだ。これは留学用のビザだ。
だから、留学するのにそんな手荷物だけなの?という感覚だったのだと思う。
私も肩をすくめて、荷物がベルトコンベアーに乗って来なくてね、などと軽口だ。この時点では既に心はテレホートまでのフライトスケジュールの変更手続きのことが頭の中を支配していたのだ。

審査官の軽口に心が軽くされて気分が晴れた。
 
荷物紛失の時の私の心境を、妻に書いたはがきの文章が残っている。実は1年分で119通の手紙を妻に送っている。妻も同等くらいの手紙を書いてくれた。
 そのハガキの文章をここに披露してみようという気になってしまった。ハガキは既に処分してしまったが、文章は後にノートに書き写して残っている。
 
私は自分の書いた手紙は全て取っておくように頼んでいた。そして、妻からのものは日付順に揃えてまとめて日本に持ち帰ったのだ。それを元に、大学ノートに一部貼り付け、一部書き写していた。それが元になって、自分の留学体験を自費出版したのだ。

(上の頁は手紙を書き写し、下の頁はその続きの部分を貼り付けている
そうでもしないと、ノートが分厚くなりすぎる)

 「1981年8月21日 16:00 (日本8/22 8:00)「タイ航空が50分遅れたためシアトルから先がめちゃくちゃになって、こんな手紙を書く羽目になりました。しかもあの大きな荷物がここで手に入らず心配だらけ。 更に米国最大の悪の都市?シカゴに着くのが何と!午前一時というからイヤ~な感じ。さらにシカゴからテレ・ホートに行く飛行機があるかどうか不明で多分バスに乗ることになるのでは・・・・となると出発からウンザリ。でも心配しないで良いから、意外とのんきに手紙を書いているくらいだから。大学のI先生にはtel入れておいたから大丈夫。」       
       (ハガキは勿論縦書きだ)

 上記のハガキが第一便ということになった。

このハガキはシカゴ行のフライトを待つ間のシアトルで書いたものだ。

 シカゴ・オ・ヘア空港での待ち時間の怖さ。テレホート行の通勤用の小さな空港の様子見の不安。初めてのプロペラ機。12人乗りという小ささにビビる。そういった私の心細さなどは「留学ってきつい、楽しい 2」に既に書いている。
この記事はとても長い文章だ。だから、目次からどこに書いてあるか探ることができる。

 テレホートに無事到着してから、寮の手続きなどをしながら、知り合いを作って町で下着類を購入して、スーツケースが手元に来るのを待った。空港から連絡が入ったのは、3日後だった。

連絡が寮に入るとすぐに車を持っている人に頼んで、一緒に取りに行く。 やれやれ・・・。

 最後に、私の二度の留学を支えてくれたスーツケースは、5年前に娘と同居するときに、廃棄処分にしてしまいました。映像を残しておくべきだった! 完

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