新名一仁

中世島津氏の研究者です。Twitterは@tabenomuraji ブログhttps:…

新名一仁

中世島津氏の研究者です。Twitterは@tabenomuraji ブログhttps://sangoku-nyuto.blog.ss-blog.jp/ Amazon https://www.amazon.co.jp/~/e/B076ZPC34F

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  • 歴史講座「戦国島津」前提編

    歴史講座「戦国島津」のうち、第1回から5回までをマガジンにまとめました。島津氏の誕生から戦国時代突入までの部分です。

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新名一仁編『戦国武将列伝11 九州編』の訂正

6月に刊行しました拙編『戦国武将列伝11 九州編』(戎光祥出版)は、ご好評をいただいております。 その一方で、相変わらずの校正下手というか、注意力のなさにより編者である私の執筆分に多数のミスが見つかり、複数の読者の方々から御指摘を受けております。重版にでもなれば修正するのですが、なかなか難しいですので、こちらで訂正いたします。ご購入いただいた方には、深くお詫びいたします。 「島津義久」の項、419頁の系図 島津忠恒(家久)室に「カタリナ」とありますが、カタリナは忠恒室の母

    • 「戦国島津」第21回「大隅国始羅郡統一戦」その①

      加治木の肝付兼演・兼盛父子を従属させた島津貴久は、始羅郡統一を目指す。裏切った肝付氏を討つべく、祁答院良重が加治木に進攻すると、島津貴久は三人の息子達とともに岩剣城を包囲する。始羅郡統一戦の前半戦、岩剣城・平山城攻防戦を解説します。 関連史跡・博物館はこちら ・岩釼神社 https://goo.gl/maps/7wd4d4ufXcWN2iLfA ・岩剣城跡 https://goo.gl/maps/fshBuqRPGiNP6LVw7 ・白銀坂入口 https://goo.gl

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        歴史講座「戦国島津」第21回「大隅国始羅郡統一戦」その①

        加治木の肝付兼演・兼盛父子を従属させた島津貴久は、始羅郡統一を目指す。裏切った肝付氏を討つべく、祁答院良重が加治木に進攻すると、島津貴久は三人の息子達とともに岩剣城を包囲する。始羅郡統一戦の前半戦、岩剣城・平山城攻防戦を解説します。

        • 歴史講座「戦国島津」第20回「黒川岬で鉄砲は使用されたか?フランシスコ・ザビエルはどこで島津貴久に面会したのか?」

          天文18年(1549)、島津貴久と加治木の肝付兼演の抗争に絡んで、ふたつの事案について論争が長く続いています。日本で初めて実戦で鉄砲を使用したのは黒川岬の戦いだったのか?、鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは、どこで島津貴久に面会したのか?この2つの問題について、独自見解をご紹介します。 関連史跡・博物館はこちら 黒川岬展望公園 https://goo.gl/maps/rZBEoQ16LJaWDaaN6 城山公園(一宇治城跡) https://goo.gl/maps/e

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          歴史講座「戦国島津」第20回「黒川岬で鉄砲は使用されたか?フランシスコ・ザビエルはどこで島津貴久に面会したのか?」

          天文18年(1549)、島津貴久と加治木の肝付兼演の抗争に絡んで、ふたつの事案について論争が長く続いています。日本で初めて実戦で鉄砲を使用したのは黒川岬の戦いだったのか?、鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは、どこで島津貴久に面会したのか?この2つの問題について、独自見解をご紹介します。

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          拙著『「不屈の両殿」島津義久・義弘』のご紹介

          Twitterで連続ツイートした話をこちらに再掲しております。また、刊行後に見つかった、御指摘を受けた修正すべきミスもリストアップしております。 出版の経緯 本日は拙著『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』(角川新書)について、色々つぶやいていきます。  本書は2年前でしたか、奥付に「編集協力」とある志学社の平林さん@moegi_hiraからの、前著『島津四兄弟の九州統一戦』の続編を書きませんかとのお誘いがきっかけでした。  『島津四兄弟の九州統一

          拙著『「不屈の両殿」島津義久・義弘』のご紹介

          歴史講座「戦国島津」第19回「大隅支配強化のための諸前提」

          加治木の肝付兼演と和睦した島津貴久。薩摩・大隅国境に盤踞する反島津方国衆達との対決を控え、さまざまな準備を整える。居城の伊集院から鹿児島への移転、大隅正八幡宮の再建、御一家との結束強化。そして、貴久の息子達が無事成人し、貴久を支える存在となっていく。 関連史跡・博物館はこちら ・大隅正八幡宮(鹿児島神宮)  https://goo.gl/maps/V1iXjzNbi8FHbLsY6 ・御内・大龍寺跡(大竜小学校)  https://goo.gl/maps/HAJMAB4Bp

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          歴史講座「戦国島津」第19回「大隅支配強化のための諸前提」

          加治木の肝付兼演と和睦した島津貴久。薩摩・大隅国境に盤踞する反島津方国衆達との対決を控え、さまざまな準備を整える。居城の伊集院から鹿児島への移転、大隅正八幡宮の再建、御一家との結束強化。そして、貴久の息子達が無事成人し、貴久を支える存在となっていく。

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          歴史講座「戦国島津」第18回「加治木肝付氏との対峙と飫肥情勢の緊迫化」

          大隅国府を制圧した島津貴久は、伊東氏の侵攻に晒される島津豊州家を救援すると、大隅国府と守護所鹿児島の中間に位置する加治木の肝付兼演攻撃に踏み切る。 関連史跡・博物館はこちら ・飫肥城:島津豊州家の居城  https://goo.gl/maps/37aL2Cujd57PRY8A8 ・中ノ尾砦にある敵味方供養塔(国指定史跡)  https://goo.gl/maps/TzMEshysMriFLoPN9 ・黒川岬の展望台:島津勢と肝付勢の古戦場でもある  https://goo.

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          歴史講座「戦国島津」第18回「加治木肝付氏との対峙と飫肥情勢の緊迫化」

          大隅国府を制圧した島津貴久は、伊東氏の侵攻に晒される島津豊州家を救援すると、大隅国府と守護所鹿児島の中間に位置する加治木の肝付兼演攻撃に踏み切る。

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          歴史講座「戦国島津」第17回「島津豊州家・北郷氏の従属と本田董親の自立」

          伊東義祐の飫肥進攻を受けて、島津豊州家と北郷氏は島津貴久を三州太守として承認する。その様子を見ていたのは、近衛稙家が派遣した参議町資将。彼を饗応したことから、近衛家からも信任を得たのは、貴久では無く大隅国府を押さえる本田董親であった。島津家からの自立を図る本田董親に、貴久はどう対応したのか? 関連史跡・博物館はこちら ・大隅清水城  https://goo.gl/maps/dhKaE1dmcUugeHkP9 ・国分郷土館  https://goo.gl/maps/f7GUk

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          歴史講座「戦国島津」第17回「島津豊州家・北郷氏の従属と本田董親の自立」

          伊東義祐の飫肥進攻を受けて、島津豊州家と北郷氏は島津貴久を三州太守として承認する。その様子を見ていたのは、近衛稙家が派遣した参議町資将。彼を饗応したことから、近衛家からも信任を得たのは、貴久では無く大隅国府を押さえる本田董親であった。島津家からの自立を図る本田董親に、貴久はどう対応したのか?

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          歴史講座「戦国島津」第16回「伊東義祐と本田董親の台頭」

          天文9年(1540)に三州太守であることを宣言した島津貴久であったが、翌年以降さまざまな困難に直面する。その困難とは、日向の伊東義祐の南下政策と薩隅国境に成立した反島津同盟である。伊東義祐の家督継承から飫肥進攻に至る過程と、反島津同盟結成のきっかけとなった天文10年(1541)の生別府城包囲について解説します。

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          歴史講座「戦国島津」第16回「伊東義祐と本田董親の台頭」

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          天文9年(1540)に三州太守であることを宣言した島津貴久であったが、翌年以降さまざまな困難に直面する。その困難とは、日向の伊東義祐の南下政策と薩隅国境に成立した反島津同盟である。伊東義祐の家督継承から飫肥進攻に至る過程と、反島津同盟結成のきっかけとなった天文10年(1541)の生別府城包囲について解説します。

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          第15回「16世紀前半の薩琉関係とふたつの事件」

          16世紀前半、九州南部の制海権は誰がにぎっていたのか、そしてのちの戦国大名島津氏による薩琉交易の独占化への起点はどこだったのか?永正13年(1516)の三宅国秀殺害事件と、天文初年(1532~33)の今岡通詮琉球渡航計画を利用した、守護島津勝久の企みとは? 関連史跡・博物館はこちら ・三宅国秀の本拠、連島(岡山県倉敷市連島)  https://goo.gl/maps/JSBwQiV7npa5hZwi8 ・坊津歴史資料センター輝津館  https://goo.gl/maps/

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          第15回「16世紀前半の薩琉関係とふたつの事件」

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          歴史講座「戦国島津」第15回「16世紀前半の薩琉関係とふたつの事件」

          16世紀前半、九州南部の制海権は誰がにぎっていたのか、そしてのちの戦国大名島津氏による薩琉交易の独占化への起点はどこだったのか?永正13年(1516)の三宅国秀殺害事件と、天文初年(1532~33)の今岡通詮琉球渡航計画を利用した、守護島津勝久の企みとは?

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