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拙著『「不屈の両殿」島津義久・義弘』のご紹介

Twitterで連続ツイートした話をこちらに再掲しております。また、刊行後に見つかった、御指摘を受けた修正すべきミスもリストアップしております。

出版の経緯

 本日は拙著『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』(角川新書)について、色々つぶやいていきます。
 本書は2年前でしたか、奥付に「編集協力」とある志学社の平林さん@moegi_hiraからの、前著『島津四兄弟の九州統一戦』の続編を書きませんかとのお誘いがきっかけでした。
 『島津四兄弟の九州統一戦』は豊臣政権に降伏して以降は軽く流す程度になってしまったので、今度は義久・義弘兄弟に焦点をあてて、秀吉に降伏して以降の生涯をとのことでした。今回あまりに分厚くなりすぎて、あとがきを書けなかったので、平林さんにこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
 最初の企画案では、義久・義弘の政治動向だけでなく、妻子との関係や和歌や茶の湯といった文化面など幅広い内容でとのことでしたが、史料をめくり、先行研究を改めて整理していくとそれは無理だなと感じるようになりました。
 2年前、島津義弘没後400年記念での講座など依頼されることがあったので、それなりに史料を見てましたが、改めて『大日本古文書』や『旧記雑録』の関係史料をめくると残存史料が厖大すぎました。その解読・整理を進めていく中で、政治史だけで相当分厚くなるぞと覚悟しました。
 そもそも義久・義弘兄弟のまとまった伝記は戦後はじめてになるので、なかなか端折ることができません。しかも、角川さんの意向だと思いますが、豊臣政権への降伏後だけでなく、全生涯の伝記を書くことになり、政治史一本で書くと覚悟を決めました。
 義久・義弘に関する一般書はほとんど無かったですが、学術レベルの先行研究は、豊臣政権期を中心に山本博文・紙屋敦之・中野等のお三方の重厚な研究があり、それをどう消化して独自見解を打ち立てていくかに苦労しました。私は中世史研究者ですので、その立場からの視角にこだわりました。
 元となる原稿を脱稿したのは昨年末でした。その時の文字数は、図版・目次抜きで約28万6千字。自分でもびっくりする分量で、正直これは新書じゃ無理だなと思いました。角川側からは9万字減らしてくれと言われて、それから削りに削りましたが、結局削れたのは4万5千字でした。
 豊臣政権に降るまでの部分を全削除すれば、あと5万5千字削ることは可能でしたが、どうしても義久・義弘の全生涯をとのことで、この文字数で交渉してもらうことにしました。これで編集会議が通ったのは、ひとえに担当編集の井上さんの交渉力でしょう。この場を借りて厚くお礼申し上げます。
 なぜこの文字数で編集会議が通ったのかは私の知るところではありませんが。株価からうかがえるようにKADOKAWA全体の業績の良さによる余裕でしょうかw あるいは、忍者の研究をしていた井上さんが何らかの術を用いたのかもしれません。
 タイトルもすったもんだありました。角川新書は人物評伝のタイトルにキャッチフレーズを載せるきまりがあるそうです。「太平洋の巨鷲」とか、「砂漠の狐」とか、「東国の雄」とかですね。本書のメインタイトルは二校目まで「鬼の兄弟」でしたが、私はこれを拒否しました。
 私が本書を引き受けた一番の理由が、大河ドラマなどで島津氏が山賊や野蛮人扱いされることに強い違和感があったからです。そうしたイメージの上に「鬼島津」という誤った認識があるので、タイトルにも帯にも「鬼」という言葉は絶対に使わないでくれと強く要求しました。
 朝鮮侵攻で明・朝鮮側が島津勢を「鬼石曼子」とよんで恐れたという伝承が誤りであることは、本書263ページをお読み下さい。担当編集にはタイトル案を通すために大変苦労をおかけしました。この場を借りてお詫びと御礼を申し上げます。「不屈の両殿」を提案したのは私だったかな?

読み方、見所


拙著『「不屈の両殿」島津義久・義弘』(角川新書)の読み方、見所をつぶやいていきます。
その①。第一部 戦国期の義久・義弘兄弟―ふたりが目指したもの―は、生まれてから戦国末までの動向です。前著『島津四兄弟の九州統一戦』と重なる部分です。
目次と試読はこちら
 前著をお読みの方は第一部をとばして読んでも大丈夫です。ただ、第一部を前著の要約にするのもつまらないので、「重臣談合」による外交・軍事政策の決定に注目して流れを概説しました。これこそ戦国島津の最大の特徴なので。豊臣政権に降伏して以降の政策決定と比較すると面白いかと。
 第一部第三章「戦国島津氏権力のイメージと実態」では、戦国島津氏に対する先行研究の評価について、かなり誤解があることを指摘しました。「未熟で弱体」な戦国大名に九州統一あと一歩まで可能なのか、再考を促しましたが、近世史の立場からは異論が出るでしょう。
 第二部「豊臣政権との関係―義久・義弘兄弟の反目―」は、秀吉に降伏してから文禄・慶長の役終了までです。本書のキモの部分ですかね。当主義久・名代義弘の立場が、秀吉が義弘を公家成したことで歪んでしまいます。兄弟の関係が一番悪化、緊迫化していた時期です。
 兄弟の関係が悪化したのは、義弘が取り立てられたことだけでなく、豊臣政権との距離感、豊臣大名として島津家をどう「変革」していくべきかという方法論の対立でもありました。ただ、島津家中が義久派と義弘派に分裂したというのは、中野等先生の御指摘のように正しくありません。
 義弘と御朱印衆=与力の伊集院忠棟は、石田三成との関係を強化しますが、義久と重臣達の多くは政権との距離をとり、万事非協力的でした。その結果おきてしまうのが、文禄の役での軍勢不足と梅北国兼の乱です。その責任を取る形で弟歳久は犠牲になります。
 歳久粛正後、細川幽斎による幽斎仕置が行われますが、義久・義弘ともにその処置に不満で、政権との取次は石田三成に一本化されます。三成が島津家に手をつっこんで、何をやろうとしたのか、太閤検地ばかりが注目されますが、それ以外の部分がいちばんのみどころかと。
 石田三成の暗躍もあって、島津本宗家の世嗣には、義弘の嫡男久保が義久三女亀寿を正室とすることで確定しますが、家督を譲られる前に久保は朝鮮で没し、久保の次弟忠恒が亀寿と再婚し、世嗣となります。これが義久・義弘にとって色々誤算だったのではないかと。
 第三部「庄内の乱と関ヶ原の戦い―晩年の義久・義弘兄弟―」は、朝鮮からの帰国後から義久・義弘死没までです。帰国直後、忠恒は少将となり、義父義久から家督を譲られますが、その直後に与力であり筆頭老中の伊集院忠棟を手ずから斬殺します。その結果起こるのが庄内の乱です。
 島津家にとってラッキーだったのは、伊集院殺害に激怒していた石田三成が直後に失脚してしまい、大老徳川家康の全面支援のもと庄内の乱鎮圧が出来たことです。ただ、忠恒の軍事指揮はお世辞にもほめられたものではありませんでした。実父義弘は伏見にあり、義父義久がサポートします。
 伊集院忠棟斬殺後、通説ではいったん譲った島津本宗家の家督を義久が取り戻した(悔い返した)ということになっていますが、私はそれに異議をとなえています。忠恒はふたりの父を苛つかせてますが、家督継承者のままだったと思います。そのあたり、先行研究と読み比べて下さい
 庄内の乱が家康の仲介で終結を迎えるころ、上杉景勝の上洛問題が生じており、そのまま関ヶ原の戦いへと突入します。なぜ義弘は寡兵のまま西軍につき、国元の義久・忠恒は助けなかったのか、第三章では独自見解を示しております。キーワードは忠棟未亡人・遺児と加藤清正です。
 関ヶ原の戦いとその戦後処理は、同時に「島津義久が忠恒を廃嫡して、外孫の忠仍に家督を継がせようとしている」という陰謀論を背景に迷走を続けます。第四章「関ヶ原の戦後処理―徳川家康との和平交渉―」は、その流れと陰謀論の背景を分析しております。
 第五章「琉球侵攻とふたりの晩年」は、忠恒が新当主として義久の権限を継承・奪取し、琉球侵攻の断交で地位を確立していく流れを解明しています。ポイントは、義久配下の帰化明人コミュニティーと東シナ海交易の権益です。これについては、私の先輩が近く新書を出すことになっています。
 琉球侵攻をめぐっては、忠恒の粛正もあって、先行研究では義久・義弘の対立を過度に強調し、陰謀論を鵜呑みにする傾向がありましたので、それについても注意を促しております。これらについては今後議論になるでしょう。
 義久・義弘の晩年については、色んなエピソードがありますが、一次史料に基づく叙述は少ないような気がしましたので、淡々と書きました。個人的には屋久島から来た鳩と戯れる義久が好きです。義久の動物好きはもっと知られていいのではないかと。
 おわりに―島津義久・義弘の人物像―は、おまけです。蛇足かもしれませんが、私なりの人物像を書きました。義弘好きの方からはお叱りを受けるかもしれませんが、読み流してください。

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訂正

3度も校正し、KADOKAWAが誇る校閲部門からもかなり修正を求められたのですが、刊行後、早速誤りや疑問点を読者の方から御指摘いただいております。このうち、訂正が必要な明らかなミスを列挙しておきます。新たに見つかり次第、追加していく予定です。
・150頁8行目:北条氏直のルビ
 ×うじなが→○うじなお
・262頁1行目
 ×福島正則→○加藤清正
・335頁後から3行目
 ×松尾山→○笹尾山

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