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お酒にまつわるエッセイ

「今、わたし30歳なんです」。 夜の店、妙齢キャストの女が発する重みのあるこの言葉が、特別に価値を持つ瞬間がある。 それまでふざけて会話していた30代前半の客の男が、真剣に口説き始める瞬間だ。


「じゃあ、僕とちょうどいいですね」。 それまでスケベ丸出しだった男が急に真面目な顔をしてパーソナルデータを話し始める顔を見るの はなかなか気分が良いもので、結婚しなきゃと思いながら機会を逃していた30歳の私は、まだま だ婚活需要があるものだと妙な優越感を噛み締めていた。 そんな男たちの中でも、銀座のラウンジで作家のキープボトルのハーパーを飲みながら「また一緒 に飲みたいです」とやんわりと言う、穏やかそうな大手出版社編集の男は優良物件に思え、積極 的に連絡を取り続け、無事に交際にこぎ着けた。


私が男を選ぶ上で絶対に譲れない条件がある。「美味い酒を飲むことに注力を注ぐ男」かどうか。
男が酒を飲む理由で「お付き合い」はそれなりの幅を占めるだろう。 では、「自分一人で飲む酒」には、何を選ぶのか。美味しい酒を飲むことに労力を割く人間かど うか、ハッキリ分かれるところだろう。 『美味しんぼ』の「その人がふだん食べている物を見ればその人がわかる」と言う台詞、酒飲み の私としては「その人がふだん飲んでいる酒を見ればその人がわかる」の方がしっくりくる。


編集者のその男は、家にサッポロラガーの復刻版ビールを取り寄せていた。 しっかりと麦の味が効いて香り高いサッポロラガーは様々な食事に合い、かつ復刻版のパッケー ジは食卓を華やげてくれた。「美味しいものを、普段からいただくのは大事だよ」。 多忙な彼との深夜のお家デートを楽しみながら「この『普段酒偏差値』にうっかりやられてしま うんだな」、そう思っていた。誰のためでもなく、自分が飲むための酒をこだわれる。豊かで文 化リテラシーが高い男、こいつとの結婚しか勝たん、それくらいには考えていた。

そんな「普段酒偏差値」の高かった男は、些細なきっかけで喧嘩が勃発、うっかり別れる運びとなってしまった。私は優良な結婚見込み先を逃した悔しさから、編集者の集まるゴールデン街に通いつめるようになった。多くの編集者の男性と知り合い、「美味い酒をいかに飲むか?」で話が盛り上がる夜が幾度もあった。「何だ、他にいくらでもいるじゃん」。


美味い酒の話は楽しい。美味い酒の話ができる男は好きだ。結婚するなら一緒に家で美味い酒を 飲める男でしかありえない。 彼を好きになったのは必然だった。でも、それができそうな男はいくらでもいる。代替可能だと 結論が出た。それを友達に話すと「1人相対化するごとに婚期5年延びる」と言われた。


美味い酒を飲むことに注力を注ぐ男、を探すことに注力しすぎている私。 酒は好きだが酒が好きな男はもっと好き。どうやらあと5年は結婚できないらしい。

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