夜ホーム

Fish in the tank(9)

それから違う路線で帰る雄二や飛鳥と別れた後に、青柳は駅のホームでふいに昔の事を思い出してぼんやりとしていた。

......人はね、水槽の中を泳いでる魚と一緒なの

いつだったか母親が、何かの帰りに車を運転しながらそう言っていた。

「この先どういう人達と出会って、その人達とどういう風に過ごすか。それであなたの水槽の広さが決まるのよ」

言われた当時はその意味がよく分からなかったが、青柳は何故かそう言われた事はいつまでも覚えていた。

しかしその母親は青柳が小学五年生の時に病気で死んでしまって、その意味を聞こうと思っても、もうそれは永遠に叶わない。

「…何か良くわからないけどさ、すごいもの見ちゃったよね」

 同じ路線で帰る美雪が隣でそう話しかけても、青柳は「あぁ」とか「うん」などの適当な返事しかしなくて、またぼんやりと遠く見ながら何も話さなくなってしまった。

青柳が急に黙り込むと美雪もそれ以上何を話したらいいかよく分からず、相手から目を逸らすと、沈黙を紛らわせるために次に来る電車の時刻と自分の腕時計を交互に見た。

周囲に視線を巡らせると、夕方過ぎのホームにいる人もまばらで、皆俯いたまま、白い息を吐き出したり、足踏みをしたりして寒さを和らげようとしていた。

「…そういえばさ、青柳君って、来年から何の仕事するの?」

 何か話題を作ろうと美雪が就職の事をまた聞くと、青柳は一瞬、どうしてそんな事を聞くんだろうといったような顔になって、それから、気を取り直してその質問に答える。

「…うん。飲食店でさ、働くと思う」

「へぇ。青柳君って飲食業界志望だったの?」

「…え?違うよ。…特に他にやりたい事もないし、…バイトで慣れてるから楽かなぁって思ってさ」

 それで好きでもない事をだらだら続けて、嫌になったら途中で投げ出すのかもな、と青柳は内心で思いながら、美雪に気づかれない程度に小さく溜息をついた。

「仕事、楽しみ?」

「…全然」

青柳は思わずそう口走った後に少し考えて、「…でも本当はどんな事でも、自分なりに楽しみを見つけられるように努力していかないと、結局何をやっても駄目なんだと思う」とどこかで聞いた受け売りを付け足した。

「大人だね、青柳君は。私は結局内定取れなかったよ。箸にも棒にも引っかからないっていうのはさ、こういう事かって思い知らされたよ」

 美雪は笑顔でそう言った後に、…やっぱりこんな顔のせいだよね、と心の中で呟く。

「…大丈夫だよ、来年は上手くいくよ」

そう言いながら青柳は無責任に美雪を励ますと、また遠くを眺めた。

ホームから見える冬の夜空には雲がほとんど見当たらなくて、針金のように細い三日月と、白い一等星がまばらに輝いていた。

それから会話が途切れて、また二人で黙り込んでいると、制服を着た中学生達が、楽しそうにはしゃぎながら二人の前を一瞬で走りすぎていった。

そんな風にしていると、アナウンスの後に電車がホームに滑り込むように入ってきて、開いた扉が降りる乗客を吐き出し終えるのを待ってから、鳴り響く発車ベルに急かされるように二人は電車に乗り込んだ。

中に入ると車内は暖房が効いてもう寒くはなく、二人はつり革に掴まりながら、隣り合わせに立った。

電車がモーターの音を呻らせながらゆっくり動き出すと、美雪は青柳との間にできる沈黙を避けるようにまた話し始める。

「考えてみたらさ、なんか私達って、あんなに皆で仲良く話したのって初めてだったよね」

「…確かにそうだね」

「今更遅いけど、もっと早く仲良くなってれば良かったな…。私ね、今までああいうのずっと避けてたから」

「ああいうのって?」

「…他人と必要以上に関わり合おうとする事。…ほら、私こんな肌だからさ、小さい時とかはいじめの標的によくされたりしてさ、実を言うと、中学くらいまではしょっちゅう不登校とか繰り返してたんだよね」

美雪は吊り革を持つ手を変えながら、話しを続けた。

「…高校も私立の女子高に通っていてね、田舎で周りにあんまり遊べる所もなくて、しかも中高一貫だったから人間関係とかも本当にややこしかったんだよね。やっぱりイジメとかも頻繁にあったから、それに巻き込まれないようにするのが本当にしんどくてさ、毎日誰かの陰口に一生懸命相槌を打ったりとか、髪型とか持ち物が力のあるグループの女の子達と被らないように常に気を配ったりとか、グループ同士の権力の均衡とかが崩れる度に、昼食を誰と食べちゃいけないのかとか、帰りは誰と帰っちゃ駄目なのかとか、そんな下らない事に必死に神経を張り巡らせたりして…。最後にはそういう人間関係とか、何もできずにひたすらびくびくしている自分にうんざりして、高校を卒業したら、できれば、誰とも関わらずに、山奥みたいな所でひっそり生きていきたいとか、変な事ばっかし考えてたんだ」

 昼間のUFOの話といい、今といい、美雪がこんなに自分の話を勧んでしたのは、この時が初めてだった。それに思い至りながら青柳はその話に黙って頷く。

「だから大学はね、広い教室で、好きな席に座って、たくさんの知らない人に紛れて授業受けるだけで良かったから、最初はすごく天国みたいに思えた。でもそれだと本当に何も起こらなくてさ、気づいたら、毎日何のために学校行ってるのかもだんだん分からなくなって、しばらく大学さぼって自分の部屋にずっと引きこもって、毎日携帯いじったり、ひたすらパソコンばっかし見てる時期があったんだ。それで生活リズムとかも滅茶苦茶になってね、ネットサーフィンとかしながら朝方まで一人でずっと起きてたりして…」

急行の電車は止まらない駅を一瞬で通り過ぎて、反対路線の電車とすれ違うと、車内に轟音が響いた。美雪はそれが鳴り終わるのを待ってから、また話しをする。

「……朝方の四時くらいだったかな?ある時、海外の観光地が映された動画に行き着いてね、森の中に、おとぎ話にでも出てきそうな泉が沸いて広がっている場所なんだけど、その泉が青いインクでも流し込んだみたいにすごい透き通った色でね、泉の底で魚とか蛇とかが泳いでるのも全部見えて、それでいて太陽の光を反射して全部きらきらしてるの。毎年世界中からたくさんの観光客が、いくつも飛行機を乗り換えて、車を何時間も走らせてその泉を見に来るんだって。…でもね、あの頃、私はその手触りのない景色をパソコンで見ていてね、素直に感動できなくて、あぁ、今の私の生活みたいだなって何故か思ったんだよね。…無害で綺麗なだけの景色をずっと見ていると、なんだかものすごく寂しくて虚しい何かを同時に見ているような感じがして、ずっと見てたら、その中にずっと閉じ込められちゃうような気がしてすごい苦しくなったんだよね…」

そこまで言い終えて美雪は何気なく青柳を見ると、一瞬きょとんとした表情を浮かべ、しばらく点検するみたいに相手の顔を見つめて、それから慌てて鞄の中からポケットティッシュを取り出して手渡そうとした。

「…どうしたの?」

「いや、自分でもよく分からないんだけど…」

そう言いながら青柳は、溢れてくる涙を止めようと両手で顔を必死に抑えていた。

「ごめんね、私が暗い話しばかりしすぎたからだよね?」

「…違うんだ、そうじゃないんだけど」

 驚いている美雪にそれ以上を説明することがどうしてもできず、青柳は深呼吸を繰り返して震える体をなんとか落ち着けようとしていた。

美雪の話しを聞いているうちに捉えようのない感情があふれてきて、それは抑えようもなく後から後から膨れ上がっては涙へと変わっていった。

しばらくすると、電車は主要な駅に停車して、扉が開くとたくさんの人が降りて、たくさんの人がまた乗車した。

美雪は空いた席に青柳を座らせると、自分もその隣に座って、その背中をゆっくりさすり続けていた。

家に帰るためには今の駅で乗り換えなければならなかったが、このまま青柳を放置して帰るわけにもいかず、発車のベルの後に、閉まる扉を黙って見つめていた。

……今日は本当に変な日だな。

美雪がそう思いながら向かいの窓外の景色を見ていると、飲食店や金融会社のネオンサインが次々と視界を通り過ぎていって、それから線路沿いの雑居ビルの中で様々な人が働いている様子が流れていった。

速度が上がるにつれて、建物の照明は光の帯に変わり、それが途切れて景色が急に広くなると、そこには夜の街が静かに横たわっていた。

 深いネイビーの夜空の下で、白や黄色やオレンジの街の光が無数に瞬いていて、じっと見ていると、それは海の底で発光する深海魚の群れのように美雪の目に映った。

 ……もしかしたら。と思いながら美雪はその景色をじっと見つめる。

もしかしたら、ああいう夜の底には数え切れないくらいの不安や寂しさが隠れていて、きっとみんな、誰かに見つけて欲しいと願いながら、どうしていいか分からずに暗闇の中でじっと息を潜めているのかもしれない。

ふいに沸いたその感傷を、美雪は自嘲的な気分になって押し込めると、また青柳の方を向いて、様子を見ながら話しかけた。

「…そうだ青柳君。来年でも再来年でもいいからさ、そのうちみんなで集まって、真冬に外でアイスとか食べようよ」

 美雪にそう言われて、青柳は顔をあげた。

「飛鳥ちゃんの言っていた運命の出会いってさ、何も恋愛だけじゃなくていいと思うんだ…。本当は相手が誰であってもさ、その出会いを奇跡だって信じられるかどうかが一番大事なんだと思うよ。だから、私は今日をその一つに数えてみようかなって…」

そこまで言うと、美雪は少し下を向いて、また顔を上げると、恥かしそうに笑った。

「なんか変なこと言ってるね。私も今日はちょっと変になってるかもしれない」

そう言うと、自分のバックから今度はハンカチを取り出して、青柳に渡した。

「これ、返さなくていいから」

そう言って差し出された美雪の手は、細かい傷や瘡蓋が幾重にも重なっていて、そしてその華奢な指先を見ているうちに、青柳は何か大切なことに気づかされたような、それでいて、どこかそれに気づいてはいけないような妙な気持ちに襲われ始めていた。

それから電車は、外灯が映りこんで煌いている夜の河川を越えてから、次の駅に停車した。

扉が開くと冷たい冬の空気が車内に流れ込んできて、またたくさんの人が降りて、それからたくさんの人が乗ってきた。

甲高い声の車掌がアナウンスで特急列車の待ち合わせ告げると、電車はしばらくその駅から動かなくなった。

「じゃあ、私はここで降りるね」

そう言って美雪がホームに降りると、青柳は座席から立ち上がって、ドアの近くで見送ろうとした。

「…今度会うのはさ、多分卒業式かもね」

 そう言われて、咄嗟に青柳は美雪をここで引き止めなければいけないような気がしたが、次に来る言葉を探しているうちにドアは素早くしまり、ガラス窓の向こうで、美雪が笑みを浮かべてこちらに小さく手を振っているのが見えた。

 電車が動き出すとすぐに美雪は視界の隅に消えてゆき、やがてホームが途切れると、青柳は車窓に背を向けて、理由の分からない脱力感に包まれたまま、ぼんやりと車内の中吊り広告を眺めていた。

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