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デンマークでのワーキングホリデー①

最初に、デンマークのワーキングホリデーで出会った友達、、職場、彼女のおかげでデンマークが一番充実した、楽しかった時間だった。(よく本の最初に、誰々に捧げる。的なかんじだ。)

まず初めに、デンマークに行った理由は、一つ目はフォレケフォイスコーレと言う学校に行ってみようかなと言うところから始まった。この学校は、全寮制で、授業料も安く、現地人と他の国から来た人たちが、自由に何かを学ぶと言った具合の学校だ。そのくらいしか分からないが、取り敢えず、デンマークはワーキングホリデーで行ける国の中で有名どころでは無いし、最後に行くにはちょうどいいかなと思った。ドイツやフランス、イタリアと言った有名どころにはあまり興味をそそられなかった。もちろん、ノルウェーという選択肢もあったが、デンマークの方がピンときた。

デンマークは、ワーキングホリデービザの申請費用は必要ない。日本円で確か20万くらいの銀行残高証明とその他の書類を代官山にあるデンマーク大使館に提出して、顔写真等々撮って終わり。確か3ヶ月くらい審査にかかるとか聞いていたが、2週間くらいでビザはおりた。恐らく2月の寒い時期だったので、申請する人が少なかったのだろうか。(正直最初の予算は最低40万くらい見積もるのが良いと)

取り敢えず、オーストラリアドルで10,000ドル、日本円で80万ちょいは持っていたので、余裕はあった。(最終的に手持ちでなぜか40万になっていた。)

デンマークには、ワーキングホリデーの人でも現地の医療費が無料なので、海外保険に入る必要は無い。(現地でどのくらい診察してもらえるのかわからないが。)なので初期費用もあまりかからない。航空券片道確か、、、覚えてないが8万くらいだったはず。エミレーツ航空のドバイ経由、ドバイ1時間トランジットなので、乗り換えは空港内を駆け足だ。私が調べた航空会社で一番コペンハーゲンに行くのが安いのはエミレーツ航空だと思う。そして、さすが石油の国というかんじで、なかなかサービスも悪く無かった。結構エミレーツ航空とカタール航空はおすすめの航空会社である。(カタールは帰国時に乗った)。日本の航空会社は結構値段が高いので、私には手が出せない。

2月1日にデンマークに入国した。入国初日の天気は曇り。夕方からは雪が降っていた、鮮明に覚えている。私は、1週間ほど安い宿を予約していた。

Booking.comで安い順に宿を探して、評価をある程度見比べながら宿を決める。安ければいいや。と言うわけなはなく、少し綺麗さも欲しい所だ。運よく一番安いバックパッカーズが割と綺麗だった。多分これは海外の色々な宿に宿泊した経験から来るものだろうが、結構、宿探しは得意だ。

そんな事で、デンマーク初日は、宿に籠もって家探し、仕事探し、デンマークでのワーキングホリデーに必要な手続き等を調べていた。しかし、中々ワーキングホリデーでデンマークに来る人も少なく、欲しい情報がネットから手に入らない。大抵他の国は、誰かが分かりやすくブログで紹介してくれている。家探しの結構気をつけるべきポイントとしては、嘘の情報。部屋の下見を何か理由をつけて出来ない。と言う物件は危険だ。鍵を送付するから、まず初めにデポジット(敷金)を払ってくれとメールで言われたこともある。なので、私の場合、Facebookの家探しページでルームメイト募集広告に10通くらい連絡した。

その他に、デンマーク日本人会とかそういう感じの掲示板もチェックした。運よくそこに一件だけルームメイト募集の広告が載っており、そこにもメールし下見の予約。そこから話しはトントン拍子で進み、コペンハーゲン大学の日本人研究者のアパートの一室を借りる事ができ、仕事は、そこに住んでいるもう一人のルームメイトから紹介のような形で探す事ができた。家は、一週間も立たずに移る事ができたので、2日分くらいの宿代が戻ってきた。

こうなるタイミングだったんだろうな。とよく考える事がある。いくら探しても見つからない時もあるし、いくら努力しても報われない時もある。その時に身を任して生活していると、結構巡り合わせでどうにかできることもある。人生は大半はタイミングでは無いか。自分一人ではどうしようもない。とつくづく思う。その分努力というか、圧倒的努力というか、行動というか、経験というか、チャレンジする事をやめてはいけない。と自分に言い聞かしている。

ワーキングホリデーの記事を書くに当たって、どのくらい細かく書くか。を考えていた。デンマークは一番直近なので、記憶と感情が鮮明だ。いや、もうどのくらい長くなっても、だらだらとした文章であっても、覚えている全てを書いてしまおう。と今決意した。

デンマーク到着後すぐに自分の部屋と仕事を見つけたこんな私だが、実は履歴書を50枚ほど用意していた。現地ではどこかのレストランやバーなどなどのキッチンで働けたらなと思っていた。私が見つけた職は、コペンハーゲンに当時は3店舗ある寿司屋のプレップシェフ的なポジション。スシを握ったりするのではなくて、メニューのワームディッシュの仕込みをする方だ。キッチンマネージャーが日本人で、寿司を握るのは中国人、スシ以外の料理を作るのがルーマニア人という感じ。ルーマニア人が料理を作ると言っても、私とキッチンマネージャーが仕込んだ料理を温めたり、揚げたり、最後の調理をするだけである。

日本人のキッチンマネージャーの方は、元々フレンチの日本で名のあるレストランのトップシェフをしていた方で、料理に対して学ぶ事が多かった。料理そのものというよりは、仕事に対する姿勢とか、食材に対してだ。その人のもとで最終的にコペンハーゲンにいる間はずっと働いていた。一番時間を共にした方である。

ここで、ワーキングホリデーでデンマークに行く方のために軽く説明すると、現地に到着してまず初めに、CPRナンバーという日本でいうマイナンバー的なものをインターナショナルハウスという場所で発行する必要がある。発行する際は、必ず、住んでいる場所の家主のサイン等々が必要。それで政府は国民を管理している。税金から社会保障から何からなにまで。次に、給料を受け取る銀行口座の開設。これは、雇用先の契約書が必要。(カナダやオーストラリアでは要らなかった)脱税をさせないため。後はマネーロンダリングとか。そしてその後、タックスカードとNem I Dをこれまたインターナショナルハウスで発行手続き。ここまでしないと働いて、給料をもらう事ができない。その前に携帯契約の方が先かな。携帯はSIMフリーの携帯を用意して、コンビニでSimカードを購入すればオッケー。いちいち日本みたいに携帯会社で契約する必要は無い。口で言うのは簡単だが、いざ自分でやるのは時間が掛かるし、オフィスに出向く必要があったりと、なかなか大変だが、以上が住めば、不自由なくデンマーク生活を始める事ができる。CPRナンバーさえあれば、デンマークでは身分保障になる。

全てを済ませ、いざ生活がスタート。最初はコペンハーゲンの街を色々歩いて見て回った。自転車に乗っている人がかなり多い。自動車レーンと歩道の間に、99パーセント自転車専用レーンがあるのだ。無いのは高速道路くらいと言っても過言では無い。そして街には景観を壊さないように、高層ビルも建っていない。いや、少し建ってはいる。街並みはいかにもヨーロッパという感じの建物で、市内の中心に人口の池があり、その周りを散歩している人たちをよく見る。私の部屋も市内にあり、フレデリクスベアーと呼ばれる地区だ。市内にはメトロが通っており、週末は24時間運転している。出勤にはメトロと電車を使っていた。電車は市内から各地域を結んでおり、東京でいう京王線や小田急線のイメージである。雪はあまり降らないものの、風が強く雨の日も多い。そんな冬のコペンハーゲンである。住み始めて初めの3ヶ月は、仕事をし、家に帰り日本の歴史の勉強(その時は、帰国後、通訳案内士の試験を取るつもりだった)、たまに外に散歩に出かける。そんな感じだ。借りている部屋は、3ヶ月の契約だった。というのも、家主の家族が日本から引っ越してくるので。2ヶ月前から次の家を探し始めた。今度はFacebookの部屋を貸すグループみたいなやつを使った。引っ越し先に自分のCprナンバーを紐つける必要があるので、そこも確認しながら、実際に下見したのは3件くらいだ。その中で、少し都心から離れているものの、良さそうな一室を見つけた。そこは2部屋あるアパートで、1部屋を私が使い、もう1部屋はそのアパートの持ち主の部屋、トイレ、キッチン、シャワーは共有で値段も悪く無かったし、なんと言ってもそのオーナーの印象が良かった。私はそこに住むことを決めたのだが、5月初めから家賃が発生する。今住んでいる部屋は5月いっぱいの契約。しかし、1ヶ月分家賃が重複するがそこに決めた。私がシェアハウスを決める上で大事にしている事は、その家のオーナーがいい人そうかどうかだ。概して、オーナーがあまり私と気が合いそうに無いと、そこに住んでいるルームメイトも概して私と気が合わないからだ。今回はオーナーとの共同生活、ちなみに彼女はポルトガル人の40歳くらいの気さくなおばさんという感じの人だった。

家探しと並行して、私には時間があったので、デンマーク語学校に通いはじめた。デンマーク語学校に通い、そこで出会った友達がデンマーク生活においてのいちばんの宝になった。今は違うが、私が学校に通い始めた時は、授業料が無料だった。これも通い始めた一つの理由だ。クラスメイトは主にヨーロッパの他国から仕事で来た人だったり、結婚して住み始めた人だったり、たまに私のようにワーキングホリデーの人もいるが、ほとんどは他のヨーロッパからきた人たち。イタリア、スコットランド、スペイン、ポーランド、フィンランドそしてメキシコやタイ、オーストラリア、カナダ、といった他の大陸の人たち。デンマーク語を学びに来た人たちはみんな英語が堪能で、もし私がここに1カ国目で来てたら、まず彼らとの意思疎通にてこずっていただろうな。と思う。授業の後は、よく飲みに行き、休みの日はバーベキューをしたり、夏には海で飲んだり、雪が降る寒い日はエスケープゲームをしたり。そこで仲良くなった友達の一人にジャンというスコティッシュの女性と彼の旦那アダムにはデンマーク滞在の最後までお世話になった。スペイン人アーティスト、ジスースには絵の描き方を教えてもらったり、一緒に笑ったり、彼といちばん波長があった。その他にもイタリア人のアルバート、ポーランド人のマチエク、スペイン人のエマ、もっと紹介したい人たちがたくさんいるが、後から。

そんな感じで、週5で仕事をし、学校に通い、時間を合わして友達と飲みに行ったりという生活を送り、家では、少しでもコミュニケーションをうまく取れるように英語のインプットをしたりという感じだった。そして、数ヶ月経ち、夏になった。その年の夏は何十年に一回くらいの暑く、雨が降らなかった夏だったらしく、みんな外で飲んだり、海で泳いだり、日が長い日は、夜の11時くらいまで明るかった。なんともラッキーな年に来たなと思った。

ここで、またワーキングホリデーで来る人のために。

カナダのブログで、少し触れたが、語学学校についてだ。私は語学学校に行かなければ、今でも連絡を頻繁に取るくらい仲良くなった友達はできなかった。あんなに充実したコペンハーゲン生活は送れなかった。いつどこでどんな出会いがあるかわからないので、行こうか迷っているなら学校に行くべきだ。行かないのであればいろんなとこに出向く。どんな出会いがそこにあるか分からない。後、私が学校に通い始めたのが確か3月だったと思う。そこから時間をかけて仲良くなり、夏の楽しい時期には彼らと時間を過ごす事ができた。なので、生活が慣れるまで、友達ができるまでを逆算し、デンマークに行くのは2月、3月くらいをおすすめする。どこかで、寒い時期が終わって行くのがおすすめと書いてあるが、そうすると、慣れてきた時期に冬が来てしまう。それでは勿体ない。

仕事はというと、最低賃金が大体1800円とか1900円くらい。税金で35%は持っていかれるが、まあ家賃を払っても不自由なく生活できる収入はあった。そう、実は仕事の同僚の中に私のことをイケてると言ってくれたデンマーク人女性のこがいた。海外に来て初めてのことだったので、そりゃまあテンション上がった。3回くらいデートして告白したが結果はダメであった。その時知った事が、結構海外では複数の人とデートして判断するみたいだ。私にはその経験も知識も何も無く、ただ、あ、良い!レッツゴー的なノリだった。結構期待していたのでその時はかなり落ち込んだ。これがデンマークでの一番ショックな体験だったかもしれない。まあそんなこともありつつ、生活していた。

当初、フォレケフォイスコーレという学校に通うというきっかけでデンマークに来たのは覚えているだろうか、そう、私も一応学校を探してそれなりにお金を貯めて行こうと思っていたが、同僚のデンマーク人にどんなとこか尋ねると、結構専門分野をかじる程度の勉強を3ヶ月。何かのきっかけにはなるかもしれないが、そこまで興味をそそられるほどの学校では無いし、後々行った人の話しを聞いたが、まあ自分のやりたい事がなければ、ただ行っても大したこと無いという話しだった。もし行く理由がある人は、それはそれで行けばいいと思う。

そうしているうちに夏が終わりを告げて、9月に沖縄からヨーロッパ旅行で友人とフランスとイタリアへ旅行に行った。私は、コペンハーゲンから、彼は沖縄から、パリの空港で待ち合わせをして、2泊フランス、3泊イタリアという弾丸スケジュールである。もう観光所にサクサクだ。この旅行は、写真で見た方が楽しさが伝わると思うので、写真を拝見して欲しい。いや、書くのがめんどくさいわけでは無い。写真の方が文章より良いと思うからだ。決して書くのがめんどくさいわけでは無い。

そのヨーロッパ旅行の時期からコペンハーゲンにもう何年か住みたいと思うようになった。私がビザを伸ばす方法としては、仕事先からワークビザを取得するくらいしか方法がなかった。その事をマネージャーに相談すると、オーナーを通して弁護士に相談し、ビザ申請ができるとのことだった。もちろん、ビザをサポートしてくれる代わりに、仕事量は増えるが、コペンハーゲンに長く住む事を優先したかったので、私には問題無かった。

語学学校はと言うと、政府の政策が変わり、以前のように無料では無く、レベルに応じて授業料が変わる方針になった。どこのデンマーク後学校は全部で6レベルあり、私はレベル2まで卒業し、卒業した。レベル3からは授業料を払う必要があり、また、授業数も4ヶ月だ。10月のことだったので、もしビザ申請が通らないと滞在期間中までに卒業できないからだ。

デンマーク語学校を卒業してから、私は仕事とジム、そして元クラスメイト(友達とこれからは言う)と飲んだり、一人でクラブに遊びに行ったり、仕事先で仲良くなったデンマーク人と遊んだり、中々充実した日々を過ごしていた。10月すぎたくらいだろうか。ちょうどその頃、ティンダーを通して知り合った女性、後に彼女になる女性とずっと連絡を取り合っていた。初めてデートをするのは12月くらいなので、長い間メッセージだけのやり取りをしていたものだ。彼女は日本にとても興味があり、小さい頃は日本のアニメ、セーラームーンとかをみて育ったらしい。彼女との話は別の記事で書こうと思う。

12月に友人のアダム、ジャン夫妻がバーをオープンし、よく飲みに通うようになった。おそらく私が一番の常連だったと思う。飲みに行き、アダムと遅くまで飲んだ後、彼らの家に行き飲み直したりとか。ある時、そのバーに泥棒が入った。アダムはブチギレて、数日店で寝泊りをしていたので、私も時間がある時、朝まで一緒にそこで飲み、日が明けるまでバーで寝たりしたものだ。年末はそのバーで仲良い友達や常連さんと年越しをした。

そんな感じで日々を過ごして、ワーキングホリデービザの終わりの日が近づいていた。が申請期間中は滞在が許可されているので、その許可を待っている間はいつものように生活していた。彼女とも仲良く過ごしていたので、ビザが降りなかった時のことを考えるとかなり不安だった。祈るだけだった。

ビザの結果を知ったのは、私がいつものようにジムで汗を流している時だった。こんな時間にマネージャーから連絡が来る事はほとんど無かったので、少し悪い予感はしたがそれが的中した。いついつまでにデンマーク国内から引き払ってくださいとのことだった。結構落ち込んだが、アダムの友人の弁護士に相談しようか、それまた、90日間ヨーロッパ外に出て(シェンゲン協定という決まりがあり、一度ヨーロッパの外に出て90日したらまた入国できるような決まり)、その後またデンマークに戻ってこようか。とか色々考えた。日本にそのまま帰国という選択肢は無かった。なぜなら、まだヨーロッパ国内を旅行していないし、彼女や友達と一緒にいたかったからだ。

ここで、あのトロントの沖縄料理屋を思い出した。そこのオーナーの顔が浮かんだ。そして取り敢えず連絡したら、結構軽いノリでトロント来ちゃいなよ。と返事をもらえた。もうトロントで90日間すごそうと思った。もちろん現地では働けない。しかし、少しの蓄えはあった。取り敢えず、トロントにいる友達片っ端に連絡した。そう、かなり運が良かった。アリというカナダ人の友達の家の一室をタダで住ませてくれるとのこと。結果的に3ヶ月のうちの2ヶ月と2週間お世話になった。飯は、その沖縄料理屋で手伝い、ボランティアをする代わりに食べさせてもらうことになった。

いざ、そう決めて、格安航空券片道ぶんを予約。アイスランドの航空会社WOW Air、初めて聞くLCCの航空会社だなと思いつつ、ヨーロッパにはeasy jetを始め国によって色々なLCCがあるので。まあとにかく安かった片道4万くらい。私がコペンハーゲンを一時離れると決め、友人に送別会をしてもらったり、シェアハウスの人には戻ってきたら連絡してよとか色々あり、トロント行きの前日、アダム、ジャンに宿泊した後に、空港へという計画。前日は彼女と時間を過ごした後に、彼らの家でまったり。当時使っていたFixedバイクも彼らのガレージで預かっておくとのこと。なんとも至れり尽くせり、しかもその日はゲスト用の広々とした一室で就寝。アダムは何軒か家を所有し、まあ小さい不動産オーナーといったところだ。1年と2ヶ月くらいのコペンハーゲン生活をしみじみと思い出しつつ就寝。そして次の日の朝起きて1通のメールが届いていた。私が予約していた航空会社からのものだった。

内容は、その航空会社(WOW Air)が経営破綻し、全ての便がキャンセルとなったとのお知らせメール。これはいかん、これは全然よく無い連絡だ。航空券代は兎にも角にも。私はその日に必ずヨーロッパ、詳しくいうとシェンゲン協定国外に行かなければならない。そうしないと、不法滞在となってしまう。となると、再入国ができない可能性も出てくる。すぐにアダムとジャンを叩き起こし事態を説明。そこからどうにか安い航空券を探すことに。もうここで助けてくれる頼もしい、心強い、家族のような存在の彼ら。すぐにカナダ行きのチケットを見つけてもらい購入。。。一安心して、予約完了メールを確認すると、そこには来月の日付の便名が記されていた。そう、私は、あまりにもテンパってしまい、なんと1ヶ月先のチケットを予約していたのだ。アホだ、なんてことだ、本当に私はその日出国できるのか。他にチケットはあるのか。カナダ行きのチケットではなく、もうこの際どこか違うヨーロッパ国外のチケットでも良いのでは無いか。と思っていたのだが、そこは彼らの英語力。彼らはネイティブなので、直接間違った便を取った航空会社に電話し、最後の最後で、コペンハーゲン発UK行きの飛行機にチェンジしてもらい、翌日、UK発トロント行きの航空券に変えてもらった。そしてその時に発生する金額の幾らかを、元クラスメイトの友達が少しばかり寄付してもらい、なんとか当日にコペンハーゲンを経つことができた。自分一人ではどうにもできなかった。ましてや、彼らの家に泊まっていなかったら今頃どうなっていたものか。この恩は一生忘れない。

とまあ、一旦この辺でコペンハーゲンでの一幕は終わった。この続きは別の記事で書く事とし、この記事を①とする。長々と最後まで読んでいただき感謝したい。

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