見出し画像

偏差値43から偏差値75の慶應に合格した話【継続すること:Vol.1】


こんにちは。
前回書いたnoteの冒頭書き出し「一発目のnote書いてから割と期間が空きました、怠惰な自分の性格が如実に反映されていてとても気持ちがいいですね。」から早1ヶ月。

相棒と2月にメディアを立ち上げてから2ヶ月近くが経過しますが、やはり怠惰な自分は何一つ進歩がないみたいで、noteとtwitterの更新が全く持って進んでいません。

こんな怠惰な自分が最も苦手なことはおそらく

「継続すること」

なのでしょう。本当に続かないです。
このロックダウン期間にも「筋トレ」「料理」「読書」「転職活動」を毎日少しづつでも継続していこうと決意したのも今となっては全て最初の数日間で頓挫。

ところで最近Twitterで見かけたのが、

というツイート。
まさにぐうの音もでないくらいの正論だよな、と思いました。

「継続すること」を継続させる原動力とは


ここまで書くと自分は本当にどうしようもないやつのように聞こえるし、ダメ人間の烙印を押されるお手本のようなイメージだと思います。

なので今回は、自戒の意味も込めて私のこれまでの人生において、私の最も苦手な

「継続すること」

を貫いた結果の大逆転劇を振り返ればと思います。

私の人生における大逆転劇はこれまで2回あり、
一つは今回お話する「高校受験にて、偏差値43から偏差値75(と当時は言われていた)の慶應の附属高校に合格した話」
もう一つは「大学時代、TOEIC 320点から英語をもう勉強しTOEIC900点越えを達成し、念願のイギリス留学に行けた話」
です。

どちらのエピソードも自分的には実現不可能と思うような途方もない目標に向けて、少なからず何かを犠牲にして、目標達成のために毎日「継続」した結果の大逆転劇なので、今の自分に一番刺さって欲しい。笑


今回はまず一つ目のエピソード「高校受験にて、偏差値43から偏差値75(と当時は言われていた)の慶應の附属高校に合格した話」についてお話します。

元々私は小学生の頃からサッカーに熱中しており、地元の小学校のチームに小4から加入し、週2回の練習だけでは飽き足らず、郊外のサッカースクールに週2回通い、練習のない日は友達と近所の公園でサッカーをするといったサッカー少年でした。

中学も地元の中学に入学し、不運にも入学した中学校にサッカー部がなかったので、となり町のサッカークラブに入団しました。
となり町のサッカークラブということもあり、練習場所も自ずととなり町まで行く必要があったので、学校の授業が終わった瞬間にダッシュで家まで帰り、そこから片道45分かけて自転車で通っていた。平日は月から金まで1日以外練習で、土日は練習か試合があったので、週6でとなり町まで行ってサッカーをしていたので、ここだけの話中学の友達とはあまり遊んだりした記憶がなく、卒業式もみんなが大泣きしている中、自分だけどうしても涙が出てこなかったことを覚えています。笑

そんな文字通りのサッカー漬けの毎日を過ごしており、学校の授業中もよく教科書によだれを垂らしていただのを記憶していることから、学業面には本当に見向きもしていませんでした。

そんななサッカー漬けの毎日を過ごしていた中学2年の夏前のある日、家にいる時に父親からふと

「ところでお前はどこの高校に行くつもりなんだ?」

と聞かれ、自分の中では時が止まったかのように沈黙してしまったのを強く覚えていて、苦し紛れに発した言葉が

「サッカーができてそこそこの高校」

という何も考えていませんと言わずもがな自明の回答でした。

その次に父親が私に言い放った言葉が今でも脳裏に焼きついて離れないくらいの衝撃でした。

「慶應以外の高校なら学費は払う気ないからな」

「・・・・・・・・・・」


「それで、今のお前の実力で慶應には入れるのか?」

と聞かれたので、慶應と言えば頭のいい人しか行けないイメージは流石に知っていたので、
行けると即答することは勿論できず。

そうすると父親から更なる衝撃的な一言が、

「それなら今度の全国模試を受験してみて、その結果が慶應に入れるレベルに達してなかったら即刻サッカーを辞めて受験勉強に徹すること」

この一言は当時中学2年生のそれまでサッカー=人生のような生活をしていた私にとっては晴天の霹靂のようで、
最早夢なんじゃないかと錯覚するほどでした。

全国模試を受験する日はすぐに訪れ、受験後の感触としてはとても難しかったという印象で、結果を見るのがとても怖くなりました。

そしてその数週間後に結果が自宅に郵送され、恐る恐る中身をみてみると
そこには偏差値43と書かれていた。
当時の慶應の附属高校の合格率80%ラインは偏差値75であったので、この差を残り1年半で埋めるのは天文学的な数字にも感じたのを記憶してます。


その翌日から父親との約束通り、サッカークラブには突然受験のため辞めますと伝え、慶應受験としては最王手の塾にも入塾し、週4日の授業と、空き時間は自習室を利用するために塾へ行くため、週7日での塾通いとなり、サッカー漬けだった生活から勉強漬けの日々に1日にして様変わりを果たしたのでした。


ちなみに当時の私は父親に言われたため慶應を目指すこととなっていたが、個人的に慶應に魅力を感じていたわけでもなく、何がなんでも慶應に入学したいという強い思いもなく、慶應合格という目的は誰かに設定されたもので自分で設定したものではありませんでした。

なので目的というゴールは父親が最初は設定し、自分はそのゴールに向かったレールにとりあえず乗らされるところから始まったということになります。

中学2年生の私が「継続すること」ができたのは何故か


何故当時の私は自分の意思でもないのに、即座に行動し、環境も変え、目的達成のための体制を整えることができたのでしょうか。
おそらくそれはまだ私が子供だったからではないかと思います。

考えてみると幼稚園、小学校、中学校といった人生における大きな選択はと全て親の用意してくれたレールの上を何も考えずに進んできており、
その親が与えてくれたレールの上で、サッカーがしたいと言った自分のやりたいことが少しずつ顕在化してきただけで、中学2年時点での私はまだまだ子供であり、親の言うことは絶対と思っていたため、素直に親の言うことを受け入れ、生活スタイルの180度転換を果たせたのだろうと思います。

そのため、「継続すること」に理由なんて必要なかった、というのが今振り返ってみての分析です。
あと、このnoteでは受験勉強のノウハウを語る趣旨ではないので、約1年半に渡り続いた私の受験勉強奮闘記は書きません。
(塾から言われたことをやっていただけなので、本当に何も特別なことはしてないので書けないというのが本音ですが。)

なので、結果を焦らすことなく言うと、勉強漬けの生活は約1年半継続することができ、無事、第一志望の慶應の附属高校に合格することができました。

この時、正直めちゃくちゃ嬉しかったですよ、父親も母親もめちゃくちゃに喜んでいましたし。
当初は父親から設定されていた目的も、継続していくうちに徐々に自分でも慶應に合格したいと思いが強くなって、慶應のことを自分で調べたり、文化祭などに出向き実際の学校の雰囲気などを肌で感じることで、その思いはさらに増していき、気づいた時には「慶應に行くこと」が自分の目的となってました。

「継続すること」の原動力


以上が一つ目のエピソード「高校受験にて、偏差値43から偏差値75(と当時は言われていた)の慶應の附属高校に合格した話」なんですが、長々とツラツラ書いてしまったのでちょっと整理してみると、この一つ目のエピソードから言えるのは、

○目的の設定は必ずしも自分が設定するとは限らない(今回は子供の時は親が子供の目的を半強制的に設定するもの)

○目的を設定した即座に目的達成のための環境を整えることで退路を断つことが「継続すること」の一歩目

○最初は自分以外の誰かが設定した目的でも、継続していけば、自分も何故その目的を達成する必要があるのか、達成出来た時のメリット等を自分で調べるようになり、段々自分の目的となっていく場合がある

○自分の目的の達成意欲を強めるためには、WHY(何故その目的を達成する必要があるのか)を徹底的に知ること。徹底的に知るためには徹底的に調べる必要があること。


なのかなあと。



二つ目のエピソード「大学時代、TOEIC 320点から英語を猛勉強しTOEIC900点越えを達成し、念願のイギリス留学に行けた話」については、【継続すること:Vol.2】としてまたnote書きます。
読んでいただけることを期待して言います。


次回もお楽しみに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?