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「なんか違うかも」という自分だけの生き方を生きるための感覚について

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自分で何かをやってみたり、あるいは何かの仕事についてみたり、いろんな人と接したりとかしていると「あれ、なんか違うかも」という感覚がふと出てくる時がある。

それはうまくいえないのだけれど、自分だけが持っているセンサーのようなものであり、そのセンサーが「そうじゃないよ」「そっちじゃないよ」と教えてくれているように僕は感じている。

例えば自分で何かやってみようと思ってやり始めてはみたものの、「うーん、なんか違うんだよなあ」という気持ちになってやめてしまうことがあるし(飽きっぽいともいえるけれど)、何か仕事についても、まあこれも僕にやる気とか根性がないからかもしれないけれど「これじゃないかも」みたいに感じてくるし、人と接していてもなんとなく自分と合わないなあという人が感覚としてわかる。

だからそうやって自分が「なんか違うかも…」と感じたことや人からは自然と離れるようになったし、そうするとあの「なんか違う」というモヤモヤもどこかに行き、また新しいことを始めてみたり、新しい出会いがあったりする。

逆にいうと、自分にしっくりくること、自分と感覚が合う人もなんとなくわかる。

なんでかというと、自分にしっくりとくることは楽しいし、迷いがないし、スムーズだからである。

そしてそれは、自分で何かやってみることも仕事もそうだし、あと自分と感覚が合いそうだなあという人といると、変に緊張せず心が落ち着いて割と自然な自分でいられる。

そして僕はその「なんか違うかも」という感覚を信じているというか、大事にしている。

それはその感覚の通りにしてきたら、人生も楽しい方向に進むということがわかったからであり、またその感覚を無視すると僕の場合でいうと、メンタルを壊したりという経験をすることになることもわかったからである。

だから自分だけがわかる「なんか違うかも」という感覚は、なんというか海にぼんやり見える灯台のようでもあり、自分だけの生き方をするための道標のようなものだと思っている。

それは誰にも見えない、自分だけの道標であり、それはきっと、自分が生まれた時からずっと持っていた感覚なんじゃないかという気がする。

ただそれに気づかないふりをしていたというか、見て見ぬふりをしていたというのか、多分そうやって自分の心のままに「なんか違うからやめる」ということは、世間一般的にはやっちゃいけないことだと思い込んでいた。

あと僕は「逃げてはいけない」という言葉が好きじゃない。

そしてその言葉によって、これまでたくさんキツい思いをしてきた。

心では「なんか違うかも」というより「これは違う!」とはっきりとわかるくらいなのに「仕事を辞めちゃいけない」とか「このくらいみんな普通なんだ」みたいに、ここから逃げてはいけないのだと無理をしていたら、心がポッキリと折れてしまったし、その時に僕がしがみついていた仕事だったり世間はそんな僕を助けてくれるわけでもなかった。

その時、「ああ、もう常識とか世間とかどうでもいい、自分の感覚で自分の生き方を生きよう」と目が覚めた。

それから自分の感覚に素直になるようになって、まあ時に無理をしてやっぱり調子を崩したこともあったけれど、そういう経験をしてさらに自分の感覚を信じようというか、大事にしようと思うようになった。

なので今は自分の心、感覚で動いているというか、生きている感じがする。

世間がどうとか、まわりの目がどうとか、こうするのが普通とか、正直もう全くどうでもいい。

世間もまわりの目も、こうするのが普通という常識も、僕になんの責任もとってくれるわけでもない。

まあ別に責任をとってほしいという気持ちは全くないのだけれど、自分の生き方は自分が1番にわかっているのだろうし、だったらその心の声を、感覚を最優先して生きていけばいいだけである。

それが100パーセントできているか?というと、それはまだまだではあると思う。

けれど、これからはもっと自分の心の声、感覚を大事にして、ちょっとでも自分だけの生き方に近づいて、その生き方を堂々と、まっすぐ生きていけるようになりたい。

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