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「ちゃんとしなきゃ」を手放すことについて


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ここ数年、特に今年になってからは、物質的にも精神的にも、自分なりにかなりのことを手放してきたように感じる。

しかも特に抵抗感もなく、「これはさすがに手放せないだろう」と思っていたことでさえ、あっさりと手放してしまう自分にたまにびっくりするのだけれど、「やっぱりやめておけばよかった」と思ったことは一度もない。

自分でも不思議なくらい、手放した後は清々しい気持ちでいるというか、手放した後にその手放したことを思い返す、ということがほとんどないように感じる。

それはなんだろう、やっぱり前よりも「今ここ」に気持ちが向くようになったからなのかもしれない。

過去でもなく、未来でもない、今に気持ちが向くようになると、「なんであの時こうしなかったんだろう」とか「こうしておけばよかった」みたいに、くよくよすることも少なくなったというか、ほとんどなくなった。

そして手放すことの心地よさを知ってしまうと、「ああ、なんだこれも別になくてもいいんだ」とか「これはどうかな?」みたいに物質的なこともそうだし、これまで持っていた考えとか常識みたいなことも、「自分には必要なのか?」ということが知りたくなって、実験みたいな感覚で手放してみたくなってくる。

今の僕が手放してみたいのは、

「ちゃんとしなきゃ」という感覚である。

まあ、めんどくさがりでナマケモノでちゃらんぽらんなので、果たしてこれまで「ちゃんとしていたこと」が、そもそもあったかどうか疑わしいけれど、物心ついたころから「ちゃんとしなきゃいけない」という言葉というのか考え方、あるいは常識にはずっと縛られてきたようにも感じる。

ちゃんと学校に行って、ちゃんと卒業して、ちゃんと定職についてみたいな「こう進むのが一般的、普通ルート」を進んでいかないといけない、このルートから外れてはいけない、みたいにいつのころからか思い込むようになってしまっていた。

そしてそれは自分が望むことではないし、そもそも小さいころから何か「やりたいこと」も「なりたいもの」もなかったわけで、僕としてはただただ心穏やかに、楽しく心地よく生きたいだけだった。

けれども、なんというか決められた型みたいなものに、例え自分がうまくはまらないとしても、無理矢理でもはまらないといけないと思っていた。

結局は人の目、世間の目を気にしていただけだったのかもしれないと今になっては思うし、そのために無理をして体や精神を壊してしまうことは、何かおかしいんじゃないかと感じるようになった。

「ちゃんとしなきゃいけない」という言葉は、人によって受け取り方は違うとは思うけれど、僕としては人の心を支配してしまうくらいに強い言葉だと思っているし、あんまり好きではない。

「ちゃんとしなきゃいけない」と感じる、あるいは誰かに言われるいうことは、自分は他の人と比べてちゃんとしていないわけで、そうなるとちゃんとしていない自分というのは、ダメな存在なんだみたいに思うようになってしまって劣等感というのか、どんどんネガティブな底のない沼に沈んでいくような感じになる。

なんともない人からすれば「それは気にしすぎだろう」となるかもしれないけれど、「ちゃんとしなきゃいけない」という言葉は、人によっては恐ろしいくらいに強い言葉になると思う。

実際に僕はその言葉に長いこと、自分の心を支配されていたように感じるし、精神的にも追い詰められたこともあったと思う。

ただこれは年を重ねて、いい意味で開き直ることができたとも言えるかもしれないけれど、「もうちゃんとしなくてもいいや」と思えるようになってきた。

ちゃんとしなきゃと無理をしても、結局は体調を大きく崩しただけだったし、それはまわりからすれば、僕に問題があるから、あるいは弱いからと思われただけだろうし、なあんだ、だったらもっと自分の感覚に素直になってもいいんじゃないかと目が覚めたというのか、術が解けたような気持ちになった。

ちゃんとすることは大事なことかもしれないけれど、時としてその言葉というか、その言葉に含まれているものは、誰かにとっては重くのしかかってくるものなんじゃないかなと感じる。

もちろん、ちゃんとすることがいけないことだとは思わないけれど、その言葉の持つ冷たさ、恐ろしさがわかるからこそ、これからは背負っていたその重たい言葉を手放して、もうちょっと身軽な人生にしていきたい。

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