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20歳について

かつて僕がその歳になった時に一人の先輩がくれた手紙を、読み返した。

10代から20代へかわる時期の特別さ。
それは誰もが「大人になること」の意味を考える時期。
そのころの人は誰もが敏感で、繊細で、もろい心をもっている。
身体中のあらゆる感覚が研ぎ澄まされて、何かに出逢う度にどんどん世界が広がってゆく。
もちろん、良いことばかりではないけれど、そういったひとつひとつの出逢いを大切にしていってほしい。

そのようなメッセージをもらった。

「私は、○○(僕のこと)の”感じる心”がとても好きです。美しいと思う。だからこそ、その心が感じ取ったものと丁寧に向き合い、付き合っていってほしい。きっと、一生の財産になると思います」

なんて素晴らしい言葉を貰っていたのだろう。
「あったかいもので溢れる地球になればいいな」と語る背中を、いまでもたまに思い出す。

20歳になって、上のような言葉を貰って、自分に次の3つの信条を設けた。

自分に素直になること。
自分に正直でいること。
真摯に向き合うこと。

素直・正直・真摯。この3つの「まっすぐ」を僕は大切にしている。自分の”感じる心”を壊さないために。心が感じ取ったものと丁寧に向き合い、付き合っていくために。いま研究の道にいることは、その「生き方」をめぐる実践でもあるように思う。

そのおかげだろうか。20歳から今日にかけての自分の人生はとても豊かなものになっていると思うし、その日々は確かに僕の一生の財産になっていると思う。それらは、逃避不可能な生きづらいこの世の中において、自分が生きやすい世界を(他者とともに)構築していく術となっていると思う。

ところで僕は「ひねくれている」とよく言われるが、それは「素直なだけ」なのだと自分では思っている。常識や前提を疑ってしまう人はきっと「素直」なのだ。

子供は常識なんて知らない。それゆえか、常識からみれば馬鹿馬鹿しい行為をする。よく怒られるし、「扱いにくい」と思われたりもする。それは素直だからだ。常識にとらわれない「どうして?」「なんで?」の質問を投げかけられることが大人から見て「鬱陶しい」「扱いにくい」のは、あなたが素直ではないからであり、常識にとらわれているからにほかならない。大人になるにつれて素直ではなくなってしまう。敷かれたレールからいかに外れないかということが重要であり、自分の感情に正直でいること、素直に向き合うことにはリスクがつきまとう。

ただ、「素直」でいることには2つの側面があることは注意すべきだろう。
すべてに「なぜ?」「どうして?」と問いかけてしまう素直さとは反対に、言われたことをすべて鵜呑みにしてしまう素直さもおそらく存在する(それを別の言葉、たとえば「純粋さ」とか「純朴さ」といった言葉で表現するべきなのかもしれないが、それは今は考えない)

大人が言う「素直で良い子だね」という言葉は、「大人の言うことに従ってくれて都合がいい」という意味だ。大人同士が大人の会話をしているときに喚き散らかさないで静かでいることも「大人しいね」という言葉で褒められる。なぜなら本当に素直な子供は、上に書いたように、きっと「面倒くさい」のだから。大人はきっと子供に「早く大人になってほしい」と願っている。胸の内に羨ましさを秘めながら。

あらゆる事柄を鵜呑みにしないためには、素直でいることと同時に、正直でいることが重要となる。しかし自分の軸ばかりを優先していてはしばしば見失う事柄もあるだろう。それを防ぐためには、自分にも他者にも「真摯」に向き合わなければならない。真摯に向きあえば、他者も「鬱陶しい」と思わずに真摯に向きあってくれるかもしれない。

20歳になり、「大人」になることを考えたときに、先輩からのメッセージを受け取ることができたことは、本当に幸いだった。「大人」になったその日に、その事実を祝福されると同時に「子供」でいることの大切さもまた教わったからだ。きっと「子供」のままでは、その祝福と幸福を理解したり、言葉にすることはできなかっただろう。「大人」になったからこそそれは可能になった。その意味では、たんに「制度的大人」になったということ以上の意味が、たとえば「成熟」とかいうものとして、「大人」に内在しているということだろうか。子供の素晴らしさと美しさは、きっと大人にならなければわからない。その点だけは、(制度的にせよ)大人でよかったと思うところでもある。


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