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インプットしても、アウトプットされて出てくるのはせいぜい糞である

どうも。ぺりかんです。こんにちは。
今回のヘッダー画像はMakiさんの「ほんとのほんとにそう思う?」をお借りしました。可愛らしい、味のあるイラストありがとうございます。わたしのnoteを読む皆さんもぜひ「ほんとに?」「ほんとかよ」とわたしを疑いながら読んでいただければ。今日は、ブックオフの100円コーナーに並ぶビジネス本や自己啓発本の棚を見て思ったことを書きます。タイトルからお察しのように、ちょっと下品な話かもしれません。

10日もすれば忘れてしまうあなたへ


上から下へと流れるタイムライン。Twitterを開いて数分もしているとすぐに現れる、「○○件の新着ツイートがあります」の表示。

「続いてのニュースです」。凄惨な事件を重苦しく伝えたかと思えば、すぐに芸能人の破局報道に転じるニュース番組。

「エモいね~!!」「わかる。エモいわぁ」と言ったそばから、すぐに次なる「エモい」を探し出す人々。

あれやこれや、なんと忙しきかな。

感動も、「エモい」と言って何かを獲得した気になっているその瞬間も、芸能人の結婚/破局報道も、トレンド1位のことがらも「炎上」騒ぎも、10日もすればほとんどの人は忘れてしまうだろう。世はお祭りなのだ。

そんなものである。「消費」期限の身近な情報の数々、感動の数々。
冷蔵庫や冷凍庫があればいいけれど、冷凍したまま存在を忘れ、放置してしまっていることも少なくなさそうだ。
・・・この挽き肉、いつ買ったやつだっけ。

「消費」のサイクルを流れるわたしたち


「感動しました」
「考えさせられました」
「自分も変えていかないと、と思いました」
そんな感想を伝えられた時に、いつも頭をよぎる。
「それ、10日後もおぼえてますか?」

おぼえていなければならない、というわけでもない。
忘れることが悪いわけでもない。
この文章を書いているわたしもきっと、10日もしないうちに気づくだろう。「あ、こんなこと書いてたのか」。

「誰だってどうせ忘れるだろう」。そのくらいシニカルな気持ちでいれば、気が楽になることは多そうである。

わたしたちは毎日、数えきれないほど多くのことがらを「消費」している。
何かを楽しみ、体験し、それによって感動や満足や快楽(とあなたが名づけようとしているもの)を獲得する。糞をしてまたおなかが減ったら、再び満足を求める。繰り返し。

排泄物程度のものしか生みださない行為のサイクルに、他者や他者の行為、コンテンツや言説を吸収しようとする行為を、このnoteにかぎって「消費」と呼ぼう(社会学や、消費社会論の蓄積に基づいた「消費論」を勉強したい人は、この説明に騙されてはいけない)。

みな、このサイクルに他を取り込もうと必死になっている。「なにかエモい文章はないかな」「なにか"深い"言葉はないかな」とnoteを読み漁っているそこのあなたは、もうサイクルの中かもしれない。あるいは有名な言葉をもじって、こう言いうる。あなたが何かを消費するとき、その何かもまたあなたを消費しているのだ―――。あなたが生産するとき、消費もまたなされているのだ―――。

抜け出すことは難しい。無理だと言った方がよいだろう。何かを生産することがすなわち消費をもたらすようなしかけはあらゆるところにあるし、消費を拒むことは、他を拒絶することでもある。そしてたいていの場合、拒絶は失敗する。「おひとりさま」用のサービスはすでにつねに構築された消費のステージであるし、あらゆるものが、「独立」「自立」にむけてあなたを駆りたてている。

インプットとアウトプットのあいだ:戦略的な便秘


インプットとアウトプット。啓発的な文章では「腐る」ほど出てくるこの2つの言葉。知らない人はいないだろう。「腐る」と書いたのは、これらがまさしく「消費」のサイクルのただなかで使用されている言葉だからであり、すでに消費期限は過ぎているにもかかわらず使用されつづけているという意味で「陳腐化」しているからである。感動を求めて、エモさを求めて、黄昏を求めてインプットに走っても、10日もすれば忘れてしまい、糞だけが残る。ブックオフにいくつも並ぶ自己啓発本や「ビジネス本」を目にするたびに、そんなことを思う。

「インプットせよ!」という要請も「アウトプットしろ!」という掛け声も聞き飽きたところがある。学んだことを冷凍庫の中(in)に置いて(put)も、置いたことそれ自体忘れてしまうなら、どうしたらよいのか。凍りはじめた「それ」を、すぐに外に(out)出せば(put)いいのか?なんか中途半端な感じがするぞ。その結果がブックオフへと行きついたあの本たちなのではないか…

インプットしたことを定着させて、実りあるアウトプットにすべて結びつけられる人など、ほんの一握りである。そうでない人は、インプットとアウトプットのあいだで果たして何ができるのか。

インプットとアウトプットの外延を拡張することで、サイクルを脱することはできずとも、回転を遅らせたり、糞は糞でも別様の糞にしたりすることくらいなら、できるかもしれない。たとえば日記をしばしば読み返すとか、「いいね」したツイートを定期的に見返すとか、そうした振り返る時間を積極的に設けることは、インプットとアウトプットのあいだにある営みの1つだろう。

あるいはどんどん新しい事柄が入り込んでくることによってサイクルが加速し続けてしまうならば、インプットを停止することもよいかもしれない。だからといって、自分の中にあるものでアウトプットをせよと言いたいわけではない。インプットを停めると同時に、「アウトプットも停めてしまえ!」ということである。すなわちただの断食ではない。どうせ糞だが、M. ダグラスを踏まえてJ. クリステヴァが述べたように、体外に排出されるまでそれは「おぞましいもの=他者」とはなりえないのだから(『恐怖の権力』(枝川昌男訳)、1984年、法政大学出版局)。体内にあるうちに作りかえてしまう策を練る、いわば戦略的な便秘にほかならない。忘れた瞬間に排出されるのだから、便秘を自覚し悩んでいる自分や、我慢している自分は、すなわち忘却からもっとも遠い場所にある

ゆっくりいきましょう。

つづく。

―――――――
ところで冷蔵庫を頻繁に開け閉めするのは良くないらしい。ということで体内のメタファーを使っていたら、どうも下品な話になってきてしまったかもしれない(そんなつもりはないのだが…)。いまわたしは、ここまでの文章をとても軽快に、言い換えれば無責任な気持ちでなげやりに書いている。わたしが出せるものはどうせ糞なのだから。そして、わたしから何かを読み取ったあなたも、けっきょくのところ糞しか出せないのだから。そう考えればnoteを書くことも、創作をすることも、すこしは気が楽である。


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