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消えたアーキテクチャ

ぼくは2010年に東京の理工系の大学に入学し、2016年に大学院を修士で卒業した。高校も理数系がメインの高校だったし、大学院卒業後は学んだ専門分野がそのまま仕事に生かせる会社に就職したので、キャリアだけ見ればバリバリの理系と言っていいと思う。

いっぽうで僕は、小中学生のときに「図書館で借りた本の冊数ランキング」(そういうものがあったのである)では常にトップで、主に歴史本や小説を好んで読んでいたような子供だったので、もともとは文系に親和性が高い人間でもあると思っている。中学生の時に読んだ中沢新一の本でレヴィストロースの名前と文化人類学という学問を知り、大学受験では、工学部に進むか文化人類学を勉強できる大学に進むかの二択を、本気で迷った.。

そういう人間なので、大学に入学してからすぐに、理工系の大学の中でも文科系のにおいのするサークルに入った。そのサークルでは毎週、学生の自主的なゼミが行われていて、そこでは現代思想の用語などが学生たちによって語られていた。今にして思えばさほど高度な議論でもないのだけど、田舎から出てきたばかりの初心な僕は「これが都会の大学生の議論なのか~」と感心していた。わりと適当に選んだサークルだったのだけど結果的には自分にとてもあっていて、大学院卒業まで6年の間ずっと在籍した。

日本における2010年代前半は、東日本大震災と政権交代があり、論壇の中心がマスメディアと雑誌からSNSに移行した時代だった。日本の空気が大きく変化した年台だったと思う。そんな当時の大学生だった僕たちが必ず読んでいたしのが、東浩紀の『動物化するポストモダン』と、彼が編集していた「思想地図」シリーズだった。あの当時に大学生だった人で、『動ポモ』も「思想地図」も読んでいないとしたら、ちょっと勉強不足だと思う。そこに出てくるキーワードを知らないとzゼミの議論に全くついていけなかったので、積極的には興味がなくても、いちおうみんな読んでいた。実際には読んでいない学生もいたと思うけど、それでも読んでいないことがばれないように見える程度の知識はみんな持っていた。

当時「思想地図」のなかでも特に読まれていたのが「特集・vol.3 アーキテクチャ」だった。「設計編」、「倫理編」の二冊からなる分厚い本『ised 情報社会の倫理と設計』とあわせて、とてもよく読まれていた。
アーキテクチャ論」というのは、ローレンツ・レッシグの『CODE』という本の内容を発展させたような議論だった。法律や武力行使のようにわかりやすく垂直的な権力ではなく、人にそれと気づかせずに生活にじんわりと介入してくるような権力の在り方を、レッシグの「アーキテクチャ」という概念を発展的に解釈した「環境管理型権力」という言葉で表現しようとしていた。この議論を進めていくと当然、もう少し前の時代に流行った政治や権力に関する議論、つまりフーコーやらドゥルーズやらを参照することになり、今思うとかなり抽象度の高い内容だったと思う。

なぜ、こんなに小難しい議論があれほど熱心に読まれていたのだろうか、ということを考えてみると、やはりアーキテクチャ論が時代の空気をとてもよく反映していたからだと思う。というより、時代を読み解くためのツールとして、アーキテクチャ論を援用していたような形だと思う。
当時は、2chの空気を引き継いだニコニコ動画が動画プラットフォームになっていた。当時のYouTubeはまだまだ日本語コンテンツが少なく、サブカルチャーの中心はニコ動やニコ生という雰囲気があったし、配信の文化だけでなく在特会みたいなネトウヨ文化のルーツの一つにもなった。
震災前にTwitterが本格的に日本で流行り始め、人々がスマホを持つようになった矢先に震災が起こり、Twitterは完全に情報インフラとなった。マスメディアが「誰誰がTwitterでこんな発言をしました」というコピペ記事ばかりを書くようになって、論壇は新聞や雑誌からTwitterに移った。SNSをきっかけにしてアラブの春が起こり、いよいよインターネットで時代が変わるという気がしていた。
インターネットが日本を変える原動力になるかもしれない。新しいカルチャーはSNSから生まれるかもしれない。近い将来、政治や社会はインターネットというエンジンを積んだ高性能マシンのようなものになると思っていた。今思えばとても牧歌的だが、そういう時代だったのだ。そういう空気感の中では、未来の政治や文化や社会を考えるうえでアーキテクチャ論のような議論がとても有意義なように見えていた。
もしかしたら当時の空気を覚えている人がいないのかもしれないし、今の高校生や大学生には想像もつかないのかもしれないが、ともかくそういう時代だったのである。だから哲学や社会学なんかを齧る程度に背伸びをしていた僕のような若者は、「思想地図」を読み、ニコ動をみて、Twitterで議論をしながら「これがアーキテクチャなのかあ?」などとぼんやりと考えていたのだ。

さて、ここにきてようやくタイトルの話になる。2010年か2011年くらいまでみんなすごく熱心に語っていた「アーキテクチャ論」は、今では完全に下火なのだろうか?
僕は現代思想や文芸の最先端がいまどうなっているのかよくわからないが、いろいろな本の流行を踏まえるとおそらく「人新世」とか「思弁的実在論」とか「ジェンダー」とかが最先端っぽいということになっているんじゃないだろうか。それはそれでもちろん結構なことだけど、僕のような薄らぼんやりとした知識しか持っていない思想オンチにとっては。いま最先端のワードがそういうものだとして、なぜそれらが最先端なのか正直いってよくわからない。それよりも、アーキテクチャや生権力について考えたほうがよくないか?と思ってしまう。
いまこの時代ほど、人文科学が「政治とは、権力とは、社会とは何か?」について考えてきた成果・知見を発揮する絶好の機会はないと思う。というか、今考えなかったらいつ考えるのだろう。2021年現在の日本社会の状況は、明らかに健全でない形で権力が行使されているし、政治による人々の生への異常な介入が行われている。「自粛」の名のものとに飲食店や娯楽産業への行われている締め付けは、後世から見れば政治によって人々の生活が弾圧されたと評価されるのは明らかである。この時代は、SNS上の乱痴気騒ぎ的な言論活動が人々の生活に害を及ぼした、社会にとって恥ずべき時代と呼ばれるはずだ。

「社会と権力と情報技術」・・・それってつまり、思想地図とかisedで考えていたことと、かなり直接的に接続するような議論なのではないだろうか?
繰り返しになるが、僕は理系の人間で人文科学については素人以外の何物でもないと自負している。だから専門的な議論に口を挟む資格はないとも思う。
でも普通に考えて、2010年ころまであれだけ熱心に考えていた議論をいま全く引き継いでいない(ようにみえる)論壇ってなんなの?なんていうか、ぜんぜん建設的じゃないよなと、日々を横目にみながらしみじみ思うしかないのだった。

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