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音楽とは、下手くそな鼻歌

さいきんやたらと、サザンオールスターズの「TSUNAMI」ばかり聴いている。

昔から好きな曲ではあったのだけど、なぜかここ1,2週間はこればかり聴いている。

サザン、桑田佳祐の音楽の良いところは、誰にでも歌えそうなところだ。


これは昔の歌謡曲やフォークソングもそうなのだけど、平均的な日本人が日常的に気軽に口ずさんだり、カラオケで歌ったりするのにちょうどいいキー、テンポを持っている。

わたしは非常に音痴なのだけれど、サザンや桑田佳祐の音楽なら気軽に歌える。もっとも「みんなのうた」とか「希望の轍」とかは、実際にカラオケで歌おうとするとなかなか厳しいのだが、それでもなんとなく歌えそうなフレーズがたくさんちりばめられている。

昨今の流行歌を腐す意図は全くないが、どう考えても掃除をしたり風呂に入りながらつい口ずさんでしまうことなど、到底できないような曲が多いと感じる。

King GnuとかOfficial髭男dismもいい曲だとは思うが、気軽に鼻歌など口ずさめないほど難易度が高く感じてしまう。
これはわたしがおじさんだからだろうか。若い子ならこれが普通なのだろうか。




かつて父親が、風呂に入っているときや車を運転しているときに、全く謎の歌をよく口ずさんでいた。

今思えば父親が若いころに流行っていた演歌か歌謡曲のたぐいだと思うが、幼いころ聞いていた私はその鼻歌が気恥ずかしく、近所や他人に聞こえるからやめてほしいと思っていたのをおぼえている。

いまもって、あれがなんという歌手のどういうタイトルの曲なのか分からないが、音楽の素養を微塵も持たない父親と音楽との、唯一の接点があの鼻歌だったように思う。

Mr.childrenの桜井和寿が、かつて伊集院光との対談の中で次のようなことを言っていた。

自分たちの音楽を「曲」ではなく「歌」と言ってもらえるようになりたい。「いい曲だね」ではなく「いい歌だね」と言ってもらえたときが、なにより嬉しい。(桜井和寿)

この言葉は、人間と音楽との関係を考えるうえで、なにかきわめて重要な示唆を与えてくれるような気がする。

「曲」という言葉はある種の記譜や数値、データに置き換えられる客観的なものだとすると、「歌」という言葉は、その人間の身体から発せられる固有の響きや振動であるような語感を持つ。





「うたう」の語源は「うった(訴)う」であるという。
折口信夫が唱えた説とされるが、わたしには定かではない。

なにかをうったえたい、伝えたい、表現したい。
その気持ちが「うた」を生んだのだとしたら、先に紹介した言葉は、音楽家・桜井和寿のきわめて鋭い直観がつかんだ、音楽の本質だといえる

「歌」には、そのとき、その場所の固有性が宿っている。
いま、ここで口から出るメロディーが、その人にとっての「歌」だといえる。

人は、音楽と、そういう風に付き合ってきたのかもしれない。



そんなことなど知らずとも、今もどこかで誰かが、もしかしたら歌手もタイトルも知らないまま、勝手気ままに歌を口ずさんでいる。

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