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わかっているのに

使わないの道端で配っているポケットティッシュを受け取ってしまったり、家で食べるのに割り箸をつけてもらったり、名作の同じ場面で泣いてしまったり、思い出し笑いもそうじゃないか。

思考と感情は別々なんだなと実感する日常を、なんだか俯瞰して見てしまったり。客観視していることを、客観視してしまったら、自分はもうどこにいるのかわからないなと。たまには「雲の上にいるみたいだ」と少しロマンチックに語るのも良いのかもしれない。


「さようなら、お別れしましょう」

そんな簡単な言葉も、引っかかってしまうくらい。感情とは厄介なものだ。
手放したくないものは、手放さなきゃ良い。離したくないのに、どこか言い訳つけて「これはお互いのためだ」なんてカッコつけセリフなんか言っちゃって。そういうのが一番ダサい。ただ諦めただけのことを、正当化するな。手放したくないなら、「離したくない」と言えるのが、カッコつけない格好良さなんじゃないか。


「話があるんだけど」と呼び出した喫茶店で、
「笑わなくなったね」と見慣れたリビングのソファで、

「一緒には居れない」と伝えた瞬間、わかってはいたけど、時が止まったような感じだった。それは、通信不良で固まった画面のようで、さらに雪の日の静けさも感じた。

理由を聞かれても答えられない。
何で嫌いになったとかそういうのではない。
「あの出来事の時のあの対応が」「キミのその性格が」「キミの行動でこう感じたから」とかではない。
どんな出来事があっても思い出だし、たとえ衝突してもそれはそれで良い思い出。あの時はぶつかってしまったねと笑えるだろう。キミのその性格も悪い部分も含めてキミだから好きだし、イライラするのも怒鳴るのも物に八つ当たりするのもそういうのもひっくるめてキミだし、悪い部分の一部を見て、好きから嫌いに変えたりはしない。キミの心無い言動で思うところもあったけど、深く深く考えた時に、キミの心無い言動やそっけなさに心細く寂しく感じただけだったということだし。
どれも原因じゃない。ただ私はいつでもキミのことを100%で好きでいただけ。どんなキミに対しても、そういうのも全部ひっくるめてキミだと思っていたから100%好きでいた。それだけ。

なんとなく、雰囲気で涙が出た。
お別れの話をしているというドラマチックさに涙が出た。主人公に感情移入しちゃうようなそんな感じ。展開が見えているのに。わかっているのに涙が出た。

卒業式で、泣かなくちゃいけないみたいな同調圧力、雰囲気に流されて涙するような。そういう作業感のある涙。

そんで持って、「私は100%ずっと好きでいたよ」という“お疲れさま”涙。己を労った涙かもしれない。

泣いているのに心はそんなもんじゃなくて。
「こういう時は涙が出るんだな」とどこか遠く、“雲の上にいるみたい”だった。

別れ話というのは、名作を見て決まったところで泣いてしまうのと似てるような気がした。

離したくないものは、とことん「話し合いをしよう」と泥臭く、真正面から、頼むから逃げないでくれと伝えるけども。
糸が切れたように、放棄した。
諦めたことを正当化しようとしたのかもしれない。

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