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雨の日は憂鬱を連れて

久々の雨のような気がした。

もしかしたら、“久々”ということはなくて、割と最近降っていたのかもしれないけれど。そんなこと私は気に留めていなかったのかもしれない。

仮説というのは面白い。仮説を立てては、ワクワクと「そうだったら、こうかもしれない」を繰り返していく。結局、仮説は仮説で、真実ではない。「結論は」「真実は」となれば、この仮説たちは“無駄”という言葉でひとまとめにされてしまう。


GW中に敷くのを手伝ってもらったラグ、組み立ててもらった棚、教えてもらってお揃いにしたゴミ箱。全てがいい仕事をしている。
さよならした傘立てやふかふかだけど場所を取る座椅子、パソコンやゲームに向ける集中した眼差し、暖かかった食卓に、さびしんぼを発動してしまったが、新たに我が家の一員になったラグや棚、ゴミ箱が“繋がり”を感じさせてくれる。

雨の日は、少しばかり冷静に、そして、頭がクリアになる。だからこそ、冷たく鬱々としてしまうのかもしれないけれど。静かに、落ち着いて、冷たい空気に心がブルっとする。うっすら鳥肌も立つ。寒いんだと思う。

薄暗い部屋を見渡して、人の気配の感じない部屋に、物足りなさともの悲しさを同時に味わうことができる。これを“一度で2度おいしい”と、表現できないのがなんとも。

絶妙に、本当に絶妙に、“ただ生きているだけ”という感じ。
程よく風味を感じる程度に。“なんとなく生きている”を味わっている。

少々、だるいような、頭が痛いような気がする。
きっと気圧のせいだろう。そういうことにしておこう。5月だし五月病かな。本当のことはわからない。なぜなら検査していないからだ。

一人でも生きていけそうと言われた時。
あの時私は「そんなことないよ」と言いたかったのを思い出した。なんなら、「一人でも生きていける人はいないよ、一人に見えている人だって、人との繋がりはあるよ」と、一言二言おまけしてやりたいくらいだった。
そんでもって、正真正銘のひとりぼっちは死ぬよと少し大袈裟かもしれないけど、それくらい言ってやりたかった。また、その時の私は正真正銘の一人ぼっちだった。そう、ギリ生きている。瀬戸際。

こういうことは言いたくないが、「一人で生きていけそうだよね」と言ってくる人は思いやりの気持ちはないのかと尋ねてみたくなる。“それ”を言ってくる人というのはもれなく「私は無理だけど」のニュアンスも込めてくる。厄介な人間。「あなたはできそうだけど、私には無理」上げているようで、落としている。謙遜しているようで、馬鹿にしているのだ。「私は一人ぼっちは無理だけど、あなたにはお似合いだし、その方が過ごしやすそうね」って。“一人”と“孤独”は違うと思う。“一人”はどこかで人との繋がりがあるが、“孤独”は違う。この「一人でも生きていけそうね」は一人ではなくて、孤独を指している。シンプルな悪口だ。

過去のシンプル悪口を思い出しては、嫌な気持ちになる。
これだから、雨の日の静かさは嫌いなんだ。


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