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小説のおいしさが分かるタイミング

小説は食べられないけど、嗜好品のようなものだとつくづく思う。
それも、コーヒーとかビールみたいな。

最初は苦かったり辛かったり、何がいいのかまるで分からないけど、付き合いとか勉強とかでなんとなく摂取しているうちに、「これがいいんだな!」「この苦さがいんだな!」と分かるタイミングがやってくる。

そのときがやってきてからは、人は好んで嗜むようになる。

だけど、小説には特有のおいしさが分かるタイミングがあると思っていて、それは現実に諦めがついたタイミングだと思う。

諦めといっても、死にたいとか、人生つまらないとかそういうことじゃなくて、「本当の私を分かってくれる人はいないんだな」とか、「心が満たされることはないんだな」とか、人間に期待することを。

人と人とがどれだけ近づいても触れられない孤独の絶対領域は誰しも心の中に必ずあって、例えおしどり夫婦であっても、そこの部分は死ぬまで満たされることはないんじゃないかな、と思ったりする。
多分、各々が心の奥で(人によっては手前でも)孤独を抱えて、社会の中で交わっていく。

なんだけど、なぜだかフィクションならちょと触れられのだ。

小説とか、エッセイとか、文章だと特に。多分自分で自分に共感しているからなのかもしれないけど、確かにそこに触れられる。

だから小説を読むことは、孤独を見つめて愛でる行為だと思う。
満たされないからこそ、愛でられのだ。

僕はまだ現実に諦めがついていなかった頃、小説の何がいいのか全然分からなかった。エンタメなら「NETFLIX観ればいいじゃん!」と思っていたし、受動的な消費に飽きたら「人ともっと交流しよう・・・」と思っていたから。

だけど孤独の絶対領域を認めるようになってから、カフェインとかアルコールみたいに、ときどき無性に嗜みたくなるのだ。
それでしか得られない体験があるから。

小説は嗜好品のようなものだとつくづく思う。

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