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人食いバクテリアと夢十夜 半覚醒時の夢?

約2ヶ月半、意識が欠落している間、私は「言葉と肉体」という束縛から解き放たれ、夢の世界を自由に彷徨った。体は鉛のように重く、瞼は開かず、声にならない声をあげる。看護師の呼びかけは遠くかすかに聞こえるだけで、その意味を理解することはできない。私の言葉は誰にも伝わらない。すぐにまた眠りの淵へと引き戻されていく。私は常に夢と現実の曖昧な境界線上を彷徨っていた。全身の痛みと幻聴に苛まれながら、これからの死を感じていた。

傷口を処置する際には、追加で鎮痛剤を打たれた。その薬の効果もあってか、私は肉体を超越した体験をすることがあった。全身を包み込む恍惚感と全能感、浮遊感。まるでジャズに酔いしれながら詩とドラッグに心を委ねるビートニクように意識を旅した。チベット僧が瞑想で到達する悟り、禅の深淵、ジミヘンのギターノイズ、アフロビートの躍動するリズムと熱帯、レイヴカルチャーの光と音の陶酔感。阿片窟。私の意識はそれらのエリアを自由に行き来した。ホフマンやリアリーが探求した意識の拡張、「2001年宇宙の旅」のスターチャイルドが体験した宇宙との融合。私自身も宇宙の始まりと終わりを一望した。ばぶー。

古今東西の表現者たちが様々な手法で表現してきた、肉体を超越したイメージの世界。あらゆる情報の渦が押し寄せてくる。音は輪郭を持ち、立体的なイメージとして鮮明に感じることができた。喧噪の中に静寂を見出し、一滴の水滴は波紋と共に無限へとインフレーションし、光の渦となった。私は表現者たちが捉えてきた感覚を、今自分も体験しているのだと感じた。あらゆる制約から解き放たれた精神の自由。彼らが表現したかったのは、この世界感であり、こんなのシラフでは絶対無理だと、その時に残っていた理性の欠片で思った。あの音楽、あの本、あの映画のあのシーンといくら羅列したところで、あの体験を説明することは、私には出来ない。今まで言語化、ビジュアル化で成功している作品もまず無いと思う。すぐ愛とか宇宙とか言い出すし。書くほどに安く俗物的なものとなり、私を含むほとんどの人が感じるであろう、この種の体験話への胡散臭さも上塗りされる。
以前、哲学をやっている友人に酔って半笑いで「哲学って何?」っと聞いたら、間髪入れずに「音楽って何?ばかなの?」っと返されたことを思い出した。


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