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ポーカーなんて知らなかったころの自分へ〜自己探索のためのメモ書き〜

はじめに

先々月、初めて書いたnoteをきっかけに大学時代の友人と再会した。自分が書いたものを読んでくれただけでも嬉しいものだが、彼は感想を伝えた上で会おうと誘ってくれた。なおのこと嬉しかった。


高田馬場駅のロータリーで落ち合い居酒屋へ向かった。数年ぶりの再会を喜びつつ互いの近況を報告し合う。
聞けば、彼は司法試験に受かり「四大法律事務所」に就職したとのことだった。
そこで働いているということは、司法試験で優れた成績を残し、初年度から年収1,000万円を稼ぎ出しているということを意味する。金銭的にも社会的地位という面でもエリートだ。かつて一緒にボールを蹴っていたはずなのだが、僕があちこちほっつき回っている間に彼は遠い世界に行ってしまったようである。

「『自分を幸せにしてくれるものを理解し、それを満たす。』の節、良いよね。」

ふと、彼がそう言った。
「色々と考えさせられたわ。激務なのもあって最近転職したんだけど、自分にとって何が大切なのものなのか判断するのって難しいよな。」

自分のnoteを褒めてくれたことからくる嬉しさよりも、彼が「自分を幸せにしてくれるものを理解することの難しさ」に言及した点が気になった。
傍から見たら順風満帆な人生を送っているように見える彼にとっても「自分を幸せにしてくれるものはなにか」という問は難しい問ということなのか。

帰宅後、改めて自分のnoteを読み返してみた。なるほど、数年前の自分が読んだら頭を抱えて文句を言い出しそうである。
「自分を幸せにしてくれるものを理解すること」が重要なのは分かったが、具体的にどうやって理解していけばいいのかわからない。

もう少し具体的に、何か補足できないだろうか。
「自分を幸せにしてくれるもの探す」、もっと広く自分という存在を知っていく、「自己探索」をこれからしていくであろう、かつての自分に伝えられることがあるとしたらそれは何だろうか。そう思い立ち筆を執った。

内容は大きく3つ。問題を見極めること、考えること、行動上のコツ。

前々回のnoteの補足のような雑記になると思う。過去の自分を宥められるか試してみよう。

問題を見極めること

将来の夢は?

先日、実家で思い出の品を整理していたら小学校の卒業文集が出てきた。いや、嘘をついた。母が整理していたのを横で見ていたら卒業文集が出てきたので、それを手に取ったというのが正しい。

懐かしい気持ちに浸りながら文集を開くと自分の所属していたクラスの企画が目に止まった。

「Q.もしも宝くじがあたったら?」

「3億円分のゲームを買う!」「好きな車を全部買う!」「宇宙に行く!」。楽しげなコメントが並ぶ。「寄付をする」といったおよそ小学生がするとは思えない立派なコメントもある。
そんな中、端の方にある「家のローンを返し残りで遊ぶ」というコメントが目についた。気だるそうな字である。一体誰だと名前を見てみると、僕のものだった。
なんと夢がなくつまらないコメントか!立派でもなけれが可愛げもない。書くにしてももう少し他に何か書くことがあっただろうに。
当時の僕は夢のようなものを持っていなかったのだろうか?

幼少期はどうだったろうか?
たしか昆虫博士になりたかった。いや違うな。聞かれたらそう答えていたが昆虫が好きだっただけだ。虫捕りに行ったりファーブル昆虫記を読むことに熱中していたが別に職業として昆虫博士になりたいと思っていたわけではない。

小学生の頃はどうだっただろう?
「将来やりたい仕事は?」と問われた際には、たしか弁護士と回答していた。口がある程度達者なことのもあってか、誰かに「弁護士に向いているんじゃない?」と言われ、それを踏襲していた記憶がある。実際のところ興味はなかったが、周囲の人たちはその言葉を聞いてなんとなく喜んでいたような気がする。

改めて考えてみると、僕はサッカー選手になりたい、お医者さんになりたい、芸能人になりたいといったような夢を持ったことがない気がする。自分の遥か彼方に、具体的な””というものを描いたことがないのだ。「こうありたい」、「こういう状態でありたい」という抽象的な自分の未来像はあるのだが、そんなものを人は聞きたがらない。具体的な夢というものを問われる場面が非常に多かった気がする。

なぜ根底にある想いのようなものに耳を傾けず分かりやすい夢を問うのだろうか。話がそれるのでその理由への考察は脇においておこう。

ともかく、「他人が僕に望むものと、僕が求めるものは違う。」
幼心にそんなことを思っていた。

それから十数年経って新卒で就職活動を行うようになっても状況は変わらなかった。
「将来のキャリアビジョンは?」「将来やりたいことは?」
面接官に問われていくうちに、相手企業に合わせてそれっぽいことを答えるゲームがうまくなっていった気がするが、内心は「またか」という思いだった。
「あなたが快く許容するであろう未来像なんて、僕は持ち合わせていないんだよなぁ。」
他人の押し付けてくる未来像と自分の描く未来像が一致することなんてほとんどない。

隣の芝生は何色か

ヨーロッパから日本へ帰国する際の経由地はドバイだった。次の便までは20時間もある。エミレーツ航空が手配してくれたホテルに荷物を置いて、そこから観光にでも出かけようと考えた。ホテルのレストランに到着し、朝食をとりながら今日のプランを練る。

きらびやかで豪勢な街並を高級車が駆け巡っているらしい。そう言えば駐車場に高そうな車が止まっていた。
観光スポットを調べてみる。世界一の高層タワー「バージュ・カリファ」、ギネス級の広さの「ドバイモール」 、世界最高7つ星ホテル「ブルジュ アル アラブ」、世界最大の人工島「パーム・ジュメイラ」等々があるらしい。
どれだけ「世界一」のものがあるんだ。まるで「世界一」のバーゲンセールだ。

どこに行く気にもならない。20時間もあるのに。僕は途方に暮れた。
ドバイという街には、人の欲望を刺激するものがそこかしこにあるが、そのどれにも惹かれなかった。

そんな訳で、仕方なくホテルの一室でこのnoteを書いている。

一見よく見えるものでも、自分にとってはどうでも良いことというのはままある。高級時計に高級車、学歴に職歴に年収、SNSのフォロワー数。どれもあればいいなぁと思わせるものだが、一体どの程度、そしてそれら全てを本当に欲しいと思っているのだろうか。
「自分を幸せにしてくれるものを探す」と言いつつ、それを外部の一般的な成功に求めようとしてしまうのが人間の悲しい性である。
しかし、隣の芝生は青く見えても、実際のところ自分にとってはただの枯れ草かもしれない。

一般的に良いとされているものや他者が持っているものは魅力的に見える。しかし、それは自分にとって本当に大切なものなのだろうか。
ドバイという街は、そんなことを考えさせる街だった。

自他の分離

ポーカープレイヤーとして生計を立てることになったら社会的な地位がなくなるのではないか。専業ポーカープレイヤーになる前にそう考えたことがある。
大当たりだ。その予感は的中している。
免許を取りに車の教習所に行った際、簡単に自己紹介をしたところ教習官は怪訝どころかゴミでも見るかのような目で見てきた。複数人の飲み会で、それほど仲のよくない年上の方に「お前なんかただのアウトローだからな」と宣告されることもあったりする。

だが、それらは問題になっていない。もちろん将来のことは分からないが、少なくとも今のところは大丈夫だ。


幸福を構成する要素を把握するために、まずは自分に矢印を向けることから始めるのが良いのではないだろうか。言い換えれば、自己と他者を分離することがスタート地点なのではないだろうか。
自分が求めているものと他人が求めているものは違うし、他人が良いとしているものや他者が持っていて魅力的に見えるものと、自分にとって大切なものは異なる。
自分の好みや、自分のやりたいこと、自分にとって大切なものが見えてくるのは、自他を分けてからだ。

解く問題を間違えてはいけない。自分と他人を分けて、自分にとって何が大切なのかということにまずはフォーカスすればいい。
輝かしい外部や、外部の基準に目を向けるよりも、自分の中のものさしに目を向けてみよう。


考えること

直感も直観も必ずしも当てにならない

大学生の頃の僕は既に考えがちなタイプの人間だったはずだ。誰に何を言われずともウダウダ考え事をしているだろう。したがって、ここで思考の重要性をツラツラと説くのはやめておこう。

自分の直感や直観を信じているから考える必要なんてないね!という方に向けて、一つクイズを用意してみた。3択クイズが10問。解いてみてその結果を見て、なお自信があるなら思考なんてものはいらないのかもしれない。

ちなみに僕の結果はチンパンジー以下だった。
事実をきちんと見て考えながら生きていこうと改めて思わされた。

考えることと悩むことは異なる

巷でよく言われることだが、悩むことと考えることは違う。答えが出るという前提に立っているかどうかが違うのだ。

「悩む」=「答えが出ない」という前提のもとに、「考えるフリ」をすること
「考える」=「答えが出る」という前提のもとに、建設的に考えを組み立てること

イシューからはじめよ──知的生産の「シンプルな本質」 安宅和人

10分以上真剣に考えてラチがあかなかったり、思考が堂々巡りをして心が痛むようだったら考えるのを一旦やめたほうがいい。それはもう「悩んでいる」可能性が高い。

論理的思考の限界

僕が就職活動をしていたころ、やたらと「ロジカルシンキング」が持て囃されていた記憶がある。
やれMECEだ、やれロジックツリーだと、皆がこぞって「思考の分析ツール」を使い、グループディスカッションを行っていた。まぁ僕もその一部だったのだけれど。

いくつかの思考のフレームワークを手に入れたので、それらをもとに自分のこと関して思考を進めてみた。過去に行ってきた活動を洗い出し、そこから何が言えそうかを考えてみる。自分には何が向いているのか、自分は何をすれば幸せになるのか等々。一応、それらしき答えは出た。しかしどうも納得感がない。今振り返ってみれば当然だった。どう考えてもインプットが足りていなかったのだ。

「思考」をどう定義するかは諸説あると思うが個人的に最もしっくりしているのは以下の定義だ。
思考=「情報と知識を加工(情報と情報でも良いし、知識と知識でも良い)し何らかの意味合いを得る行為」

情報と知識を照らし合わせたり繫ぎ合わせたりして何らかのメッセージを得るプロセスが「思考」

論理的思考のコアスキル 波頭亮

定義に照らせば明らかだが、思考は基本的に既に持っている知識なり手に入れた情報をもとに行うものだ。当然ながらアウトプット(何らかのメッセージ、意味合い)はインプットした内容(情報・知識)に依存する。
頭がどれほど高性能でも、インプット不足であれば適切なアウトプットは出てこない。当たり前と言えば当たり前のことなのだが、頭でっかちなタイプほどインプット不足で仮の結論に納得できず堂々巡りをする状況に陥りがちな気がしている。

わかり易い例を用いて似たようなことを考えている人がいたので参考までに引用しよう。

「認識」とは、自分が今いる階数のようなものだといつも感じています。2階から見える景色を前提にあれこれ議論するよりも、早く50階に行くエレベーターを見つけたほうが良さそうです。50階であれば2階では見えなかった様々な景色がきっと見られるでしょうし、そこからは全く別の答えが導き出せる可能性があります。2階から見たら「海」だと思い込んでいたものは、50階から見たらただの「湖」であることがわかるかもしれません。

ただ、このエレベーターがどこにあるかは誰も教えてくれないし、探してみないとなかなか見つからない、そんなモノのように感じています。

個人的には、限られた認識をもとにロジックの緻密さを詰めるよりも、認識を広げることに最大限の努力をしたほうが近道だったことが多い気がします。

ロジカルシンキングの弱点を考えてみた:ロジックを超えたロジックの話

※太字部分は原文に太字加工を施しました。

ポーカープレイヤーならソルバー(※ポーカーにおけるゲーム理論上の均衡解を計算してくれる計算機)をイメージしてもらえば良いかもしれない。
インプット要素であるレンジを少しいじれば、ソルバーの提示する取るべきアクションは全く異なったものになる。人間の思考・行動も同じで、適切なインプットを得なければ適切なアウトプットは導けない。いや、それどころか変数がポーカーよりも多い分、アウトプットに出てくる差は更に大きいと言えそうだ。
自分がどういう人間なのかを把握していくには、考えるだけでは足りない。行動してインプットを増やしていくことが重要だ。

行動すること

ここまでの説明で、問題を見極めること、考えること、そして行動することが重要なことが分かってもらえただろうか。(そうであると願っている)

ここでは行動するにあたってのコツのようなものを書き記そう。
小さく実験すること、ランダム性を取り入れること、バッファを持つことの3つだ。

可能であれば小さく実験をしてみる:ルンバを買わなかった話

会社員だったころ、掃除が面倒だったためルンバを買おうとしたことがあるのだが、値段を調べて驚いた。4万円もする。

即決する予定だったのだが流石に高い。本当に必要か見極めようと考えた。とはいっても、ルンバが自分にとってどのくらい役に立つのか考えたところで、その見積もりは難しかった。なんせルンバを使うという体験やそれに類似する体験がなかったからだ。

そこで3000円くらいのルンバのパチモノを導入してみることにした。お掃除ロボットを導入するということを体験してみようと考えたわけだ。

導入は効果的だった。僕にとってお掃除ロボットを導入する際の最大のメリットに気がつくことができたのだ。それは物を下に置かなくなるということだ。狭い家だったので、床にものが散乱していなければ掃除機をかける手間は大してかからない。僕が掃除を面倒だと思っていたのは、掃除機をかけるのが面倒になるくらい床が乱雑だったからだった。ということで、僕はルンバを買わずに偽物(といったら失礼なのだけれど)の、もはや充電が5分と持たないお掃除ロボットで家をきれいに保てるようになった。

最小のコストで実験し疑似体験をすることで、実態は見極めやすくなる。この経験から僕はそう実感した。

例えばだが、もしライブのポーカー専業になってみたいと考えるなら休暇をとってみてポーカー漬けの2週間なり1ヶ月なりの海外遠征を経験してみると良いのではないだろうか。ポーカーは好きだけど海外耐性はあまりなかったとか、そもそも毎日何時間もポーカーをすることが苦痛だった等々、様々なことが分かるはずだ。

ランダム性を取り入れる

「人生に、意図的にランダム性を取り入れると良いよ」
これは確か、職場の先輩がしてくれたアドバイスだったと思う。

コンピュータ・サイエンスにおける山登り法という探索アルゴリズムがどうのこうのと言っていて当時はよく分からなかったが、後から調べてみて納得した。自分なりに説明してみると以下のようなものになる。

高い山に登りたい人が、目の前にある傾斜を高い方へ高い方へと登る。そして登頂して、気がつく。「すぐ側にもっと高い山があったじゃないか」と。人は目の前の利益を長期的な利益よりも過大評価しがちなのである。

people tend to systematically overvalue near-term over long-term rewards.

Climbing The Wrong Hill


何かに熱中している時、その対象が自分の世界の全てだと思いがちであるが、実際のところそうであることは稀だ。

適度に、ランダムに普段やらないことをやってみると、思わぬ趣味に出会えたり、自分の新たな一面と出会えたりする。
僕にとってはポーカーもそうだし、こうして文章を書くこともそうだ。ごく最近たまたま出会ったものである。

自分が何が好きなのか、自分は何が得意なのか、自分は何に幸福を感じるのか。

より良い景色が見える山が意外なところにあるかもしれないのだから、様々なことに手を出してみることは良いことだと考えている。

バッファを持つ

「人生を賭けろ!」とか、「退路を断て!」といった言葉があまり好きではない。正確に言うと、こうした言葉が嫌いなわけではないが、他人向けのアドバイスとして使われているのを見るといかがなものかと感じるということだ。

これらの言葉は劇中で見る分には魅力的な言葉だと僕も思う。自分を極限まで追い込んだり、使命や任務に命をかけたり、大義に殉じる、そういった生き方は多くの人の心を揺さぶるし、立志伝中の人の言葉は人の心を打つものであることは認めよう。

ただ、それらの言葉は、数多の屍の上に成り立つ少数者の生存者バイアスにまみれている。そしてそういった言葉を投げかける人は、実際にそのアドバイスに従って退路を断ち結果として困難に追い込まれた人に対して何の保証もしない。それがあまり好きではない理由だ。
追い込みすぎて身体を壊し再起するのに時間がかかった人々を見てきたがゆえか、そう思わざるを得ない。

個人的にはむしろ退路がある方が思考はよく回るし、近視眼的な合理性から外れた自由な発想ができる感覚がある。Google, Facebook, Slackといった大成功を収めたITサービスの起こりが、時間や金銭的にゆとりのある学生が作ったサービスだったり、すぐに利益をあげなくてもよい社内ツールだったりするのは偶然ではないのではなかろうか。

覚悟を決め自らを追い込みコミットメントを上げることを否定しないし、その有効性は認めよう。ただ、退路を断つ必要はないし、命をかける必要もない。

重要なのは自分の人生にとって良い決断をすることだ。自分を追い込んで判断力が低下したら元も子もない。
最低限でいいから適切なバッファを持つこと。それが良い決断をする上で重要なことではないだろうか。


終わりに

コロナの影響で、ジョージアはバトゥミという街にて1ヶ月ほどロックダウンにあった。公共交通機関はすべて止まり、自動車の使用も禁止。街から出ることもできず、空いている場所といえばスーパー・薬局・病院くらいのものだった。

本当に何もすることがない、というか何もできない暮らしの中で、気がついことが1つあった。自分は暇だということだ。

日本に帰れないけどどうしよう、収入源なくなってしまったがどうしよう、これからどう生きていこうか。
そのようなことをあれこれ考えられている時点で、少なくとも今この瞬間生き死にを掛けて行動をする必要がないという時点で、僕が暇なことは明らかだった。

考え事というのは昔から暇人のやることと相場が決まっているらしい。
Shool(学校)の語源は古代ギリシア語の「スコレー」。その意味するところは閑暇、つまり暇ということだ。
哲学者なる人々が存在することができ、あらゆる学問の祖である哲学が生まれたのは、彼らが暇だったから。
そんな説を聞いて、妙に納得してしまった。

幸せを問うということはかつて一部の知識人にしかできなかった。現代においても、考える暇すらないという人々がたくさんいるだろう。考え込んだり悩むことができているそれ自体が贅沢なことなのだ。

そうであるならば、自分の幸福についてあれこれ悩むことができているという暇な現状に感謝して、とことん謳歌してやろう。あーだこーだ悩んでいる過程それ自体を楽しもう。最近はそう考えるようになった。

こんな結末だと結局、大学生の頃の僕は納得しない気がしている。これだけ長々と書いて、「自己探索」をすすめる上での手っ取り早い方法を僕は知らないと白状しただけなのだから。ただ彼に一つ言えることがあるとすれば、たぶん死ぬまであーでもないこーでもないと言いながら生きることになるから、苦悩することは受け入れて暇なその過程を楽しむ方向に意識を向けたらどうかということだ。

最後は小学校6年生時の僕の担任の先生の言葉で締めくくりたいと思う。

「自分の人生の中では、主役は自分。自分の思い描く物語になるか、全く違う人生になるか、わからないから、おもしろい。人生は、ながいのだからあせらず、ゆっくり進んでほしい。そして、何事も、自分自身で決断しよう。自分の人生なのだから。」

卒業文集より

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