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"感情" に価値はあるのか

「イライラしないんですか?逆に怖いですよ」

バイト中、後輩から言われた。


私は飲食店でバイトをしている。いわゆるファミレス的なところだから家族連れが多い。しかし結構夜遅くまでやっているので、夜は居酒屋化している。
私の主な仕事はホールで、レジ打ったり料理提供したり、あとはデザートを作ることもある。


先日、理不尽なお客さんに出会った。お母さまとお父さまとお子さん(3歳くらい?)の家族3人でご来店されていた。

そのお母さまに、

「もう30分くらい待ってるんですよ。子供がもう待てないんです。何をしてるんですか?」

と言われた。なので私は、

「大変申し訳ございません。いま確認して参ります」

と言った。

料理を作っている人は他にいるため、料理の進み具合とかキッチンの状況は分からなく、こう言うしかなかった。
すると、

「確認確認って、何を確認するんですか?店がうまく回ってないんじゃないですか?その原因を教えてください」

と言われた。お子さんはギャーギャー泣いていて、店中の人が私たちを見てきた。

原因と言われても、私はただのバイトだし、分からない。決められた業務をこなしているだけである。
正直、そんなに怒らなくてもいいじゃんと思った。

しかし、確かに店が混雑していて料理を出すのに時間がかかっていたから、提供時間についてお客さんから何か言われることは仕方ないことでもあった。

だから私はとにかく謝り続けた。けれどもそのお母さまの怒りはヒートアップしていくばかりだった。

遂には、「あなた何さん?(←私の名前を聞かれてる)謝ることしか出来ないの?私の日本語分かる?原因を言えって言ってるの!こんな店にお金を払うのも馬鹿馬鹿しいわ!」
とかなり大きな声で怒鳴り始めた。


その後なんとかやりとりし、料理が届いたことで私は一旦その場を去ったが、それを見ていた後輩が、

「あんな理不尽に怒鳴られたのに、何で平然としていられるんですか?イライラしないんですか?お客さんより、〇〇さん(←私)の方が怖いです」

と言ってきた。


いやもちろん私だって知らない人に怒鳴られて、いい気はしない。そして普通だったらお客さんに対してイライラしてしまうのも分かる。

でも私はそれより、"価値" を考えてしまうのだ。

というのは、
怒ったりイラついたりすることは案外体力や精神力を使う。
こんな理不尽な怒鳴り方をするお客さんに、私の体力や精神力を使ってまでもイライラする価値があるのか?
と考えてしまうということだ。

この時はもちろん、価値がないと判断したので、イライラすることもなく、悲しむこともなく、平然と過ごした。
確かに後輩からしてみたら、顔色ひとつ変えない私がロボットのように見えたのかもしれない。怖かったはずだ。



しかし、実はこんな経験はたくさんある。
例えば誰かに嫌なことを言われて泣きそうになった時、「今ここで、この人に涙を流す価値があるのか?」と考えたら、出かけていた涙もすぐに引っ込む。
それとか、また別の場面で理不尽なことを言われたとする。その理不尽なことの度合いによっては、私だって嫌な思いをして、イラつきそうになることもある。しかしまたすぐに「この人に私の体力を削ってまでもイラつく価値があるのか?」という考えになり、落ち着く。



だからたぶん私は、人より 他人に対しての感情をコントロールするのが得意だ。でもそれは決して良いことではないのだとは思う。言い方を変えれば感情を殺していることになるから。でも私の場合は、それに慣れてしまったため、感情を殺しているというより感情を溶かしているという表現の方が合っている気もする。

すこし遡って…
私が他人に対しての感情を価値の有無でコントロールするようになったのは、おそらく高校生の頃からだったと思う。
高校生活は、友達にも恵まれてとても楽しかったけれど、ただ数人、とても理不尽な教師がいた。
「理不尽」と一言で表してしまうのは少し申し訳ないけれど、それは愛のある指導ではなく、生徒である私や友達の精神を破壊していく場面がとても多かったのだ。
明らかな贔屓、教師の機嫌によって変わる対応、奴隷制度の導入(?)などに、その都度私はいちいち苦しみ、悲しみ、そしてそんな教師に対してイラついた。
しかし私がどれだけ苦しんでも、悲しんでも、イラついても、教師はびくともしなかった。私の感情に意味がないんだと思った。
苦しむと疲れる。悲しむことも疲れる。イラつくことなんてもっと疲れる。疲れただけで、その感情になったことの価値、そしてその感情自体の価値を見つけられなかったのだ。
感情を持って何か伝えたりうったえたりすれば状況も変わり、価値は生まれるかもしれないけれど、それはまた別の話になる。


そこから少しずつ時間が進み、あらゆる場面で思うようにいかないこともたくさん経験した。
他人関係なく自分のことになると、価値の有無で感情をコントロールすることは難しくなるから、
…というより、自分のことに対する感情の価値の有無を考えること自体に価値がないと思うから、
感情に従っていっぱい泣いたしいっぱい苦しんだし、自分に対してイラついたりもした。もちろん今もあるけれど。

しかし、泣いたり自分に対してイラついたりすることは、やはり相当な精神力や体力を使うように思う。
だから少し時間が経つと、
あの時流した涙は果たしてどんな価値があったのだろうか。
などと考え出してしまう。
自分のことに対する感情の価値の有無を考えることには価値がないと分かってながらも。

そう考えると、果たして価値のある感情なんてあるのかな?と思う。感情って価値があるものなのか。

感情をもっても何か行動を起こさない限り、その感情は無かったことになるのに、感情をもつ意味は何だろう。


未だに、価値のある涙、価値のある怒り、その他諸々価値のある感情を見つけられたことがない。



それは "価値" の価値観ということになるのか。私が "価値" に期待をしすぎているだけなのかもしれないけれど。

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