1945年のソ連と2022年のロシア

人も国もなかなか変われない。そう感じるニュースを目にした。それは1945年ソビエトがオーストリアのロースドルフ城で行ったこと。「300年ぶりの里帰り」戦争で壊された陶磁器がつないだものという記事だ。2015年になって交流が生まれたことは確かに感動物語ではある。古伊万里再生プロジェクトという形で、「憎悪と暴力の結果を目の当たりにする体験」だと主張しいる。しかし何か物足りないのだ。プロジェクトは素晴らしいが、どうしてもきれいごとに見えてしまうのは何故なのだろう。

その違和感は、なぜ、この1945年の行為と2022年ロシアがウクライナで行っていることを関連付けないのだろう、という問いに集約できると思う。つい最近も、博物館の貴重な展示品を略奪したり、破壊したことが報じられている。1945年と全く同じではないか。時代は違い、指導者も兵士も違うのに、全く同じ略奪や破壊が起きている。

展示物を見て、何を感じ、何を理解し、今につなげるか。これを補強し、理解し、考えるための視点が圧倒的に足りないように見える。これが違和感なのだと思う。


日本人が戦争を描写する映画で、戦争を天災と同じように扱っている、という批判を聞いたことがある。何もしなかった一般人も加害の責任があるはずなのに。自分達・自分の国の加害性を認めることができていたら、ロシアがウクライナに攻め入った時、それは日本が満州で同じことをしたのだ、と言えたはず。二度と戦争をしない、と宣言したのなら、侵略戦争をしない、させないよう、考え方を変えていくこそが重要だ。しかし、今の日本には嫌韓を煽ったり、社会的少数派を貶める感情があることがとても気になっている。

そういえば、ウクライナはこれまでの歴史で1度も自ら他国を侵略したことがないと言う。これこそが歴史の重みなのだ。だからこそ変えるのは難しいのだと改めて思った。