月(ルナ)は笑う――幻想怪奇蒐集譚 第一話 蜘蛛
ルナ・ペルッツは『綺譚蒐集者』だ。世界各地を巡って、奇妙な話、面白い話=綺譚を集めて回っている。
月のごとくまんまるまるな顔にきらりと光るモノクル。長いマントと外套の下に、改造したフロックコート。いつもパイプを手に持っている。
彼女には噂があった。
素晴らしい話を提供した者の願いを一つだけ叶えてくれる。
――という。
オルランド公国南端ボッシュ――
首は町を見おろすかたちで、大きな教会の鐘楼にある風見鶏の尖端に突き刺されていた。
早朝の散歩で通りかかった商人が、真っ青になって声を上げると、いつしか野次馬は集まってきた。
熟睡していた寺男は起こされてベッドから身をもたげ、鐘楼の屋根を伝って登る。首は風見鶏からおろされた。
少女の首だった。周りを囲む野次馬の中には嘔吐く者もあった。その瞳は眼窩からくり抜かれて、代わりに蜘蛛の巣が張られていたのだ。中は虚ろだった。血は流れないほどに乾いていた。
胴体は近くの納屋の中に無造作に投げ出されていた。藁の束の間から見えるぐらいはっきりと。
やがて少女はボッシュに住む靴屋オットーの娘マルタと分かった。三日前、家から忽然と姿を消したのだ。
疑われたのはマルタの母リーザだった。娘の失踪前からだが、いつも夜になるとこっそり外へ出ていたことが確認されたからだ。
「日頃からマルタを打擲することが多かったですからな」
自宅の書斎に坐り、肥満した巨体を揺すりながら町長は言った。傍では召使いの女が無言のまま火掻き棒で暖炉を弄っている。
マルタにはあざがあった。それも、顔ではなく身体の服で隠れて見えない部分に幾つも殴った痕が出来ていたのだ。マルタの遺体の損傷は酷く、生々しいミミズ腫れまでついていた。
「頭もおかしくなっているという噂があります」
町長の家の中まで上がり込んできていた野次馬連は言った。
「全く蛇のような、業の深い女ですよ」
町長は目をつぶり、手を組んだ。
「そうですか」
皆を前にして安楽椅子に坐ったルナ・ペルッツは言った。
先日たまたまふらりと時代遅れな馬車に乗ってやってきて、町を騒がせている事件について聞きたいと乞うたからここにいる。
「父親はどんな方で?」
ルナは聞いた。
「オットーは実に大した男ですよ。あれぐらい見事な靴を作れるやつはいません。うちの町民はほとんどやつの作ったものを穿いています」
町長は答えた。
「なるほど」
ルナは薄く笑んだ。
「なぜあんな女を妻にしたのでしょう。縁家からの紹介だとは思いますが、それにしてもひどいもので」
「きちがい沙汰を口走っているのですからな」
また野次馬達が嘴を入れてきた。
「どのようなことを?」
「子供を産ませられて面倒を見切れない、夫も構ってくれないと」
「それが変なのですか?」
野次馬も町長も目を瞠った。
「子供の面倒は妻が見るのが当たり前でしょう。十人の子を立派に育て上げた女もいる。他の女たちの手だって借りられる。リーザは人付き合いすらろくにできないから、一人で抱え込んだんです。で、それなら始末してやろうと考えた訳だ」
「浅ましく、おぞましい発想ですな」
「しかし鐘楼の上など、簡単に登れるでしょうか」
「できないことはないですよ。登りやすいように梯子は掛けたままだったのですし、誰にも気付かれないはずです。この町の人間はみな脳天気ですからね」
町長は自信たっぷりに言った。
「長閑な町で恐ろしい事件を起こすとは、リーザのやつめ」
「じゃあリーザさんに会わせて頂けませんか」
ルナは立ち上がった。
「高名なあなたさまに顔合わせするような者ではありませんよ」
町長は暖炉に当たって出た汗を拭きながら言った。
「わたしは会いたいんです」
「ではでは、今回のお話はいかがでしたでしょうか。あなたの蒐集には値しましたでしょうか」
揉み手してすり寄ってくる町長。
「それも会ってからじゃないと分かりませんね」
一人歩き出すルナの後ろに影のように背の高いメイドが寄り添った。しかし、その影はない。
従者兼馭者のズデンカだ。
「チッ、けったくその悪い奴らだな」
ランプの明かりに浅黒いその肌が映し出された。それを町長の家の召使いたちは指差して囁き合っていた。
「ズデンカ、君は相変わらず口が悪いね」
振り返ることもなくルナは言った。
「リーザって女がどうなろうが知ったこっちゃねえが、あんなあからさまに罵られちゃな」
「頷けなくもないね。君もわたしも女だから。同じ性が罵られるのは誰だって気分が良くない」
「そんだけの問題じゃないだろ。あいつら人に対する敬意が完全に欠けている」
ズデンカはひどく不機嫌だった。
「はなから人とは思ってないのだろうさ」
ルナは木製のパイプに火を付けた。そのライターが闇の中でまた光った。
「ルナも物好きだな」
「わたしは知りたいだけだよ、綺譚《おはなし》をね」
「はいはい」
そんな話をしながら二人は牢屋の前に辿りついた。
カビの臭いが鼻を刺す。町の連中が語っていた通り、あまり犯罪者がでない町なのか、長く使われている様子はない。
鉄格子の向こうでは、錆びた鎖に縛られて、髪を振り乱した女が顔を伏せていた。
「話を聞かせて欲しいのです」
ルナは話しかけた。
「そう言われて、いきなり話すやつはいないさ」
ズデンカは皮肉っぽく笑った。
「わたしは殺したのかも知れません」
女の声はか細かった。しかしルナとズデンカにははっきり聞こえた。他に音がしなかったせいだろうか。
「どういうことでしょう?」
「わたしはマルタを育てられなかった。だから殺したのかも知れません」
「では、あなたは鐘楼に昇ったんですか」
女は答えなかった。
「話になんねえな、やっぱどっかおかしいんだろう」
ズデンカは人を見切るのが早い。
「あなたは夜、家を出ていたと言われていますが、それはなぜなのです」
パイプに煙草が足される。ルナのモノクルが光った。
「蜘蛛に導かれて、夜の奥から」
「はぁ? 詩なんか吐かれても訳わかんねえよ」
ズデンカは身を乗り出していた。
「なんだ。君も興味持ったのか」
ルナはほくそ笑んだ。
「いや、あたしは妙な言葉遣いが気になっただけだが」
「嘘言っちゃって。こいつ、ポエムを書くのが趣味でしてね。詩的な表現には反応が早ーい」
ルナがおどけた。
「言うな、殺すぞ」
ズデンカは軽くルナの胸倉を掴んだ。
「大丈夫。聞いてないようだよ」
女の頭上高くに開かれた格子付きの窓から、月光が溢れ出していた。それで赤毛の髪が掛かった顔がはっきり照らされたので分かったのだが、うつろな目でルナとズデンカを見ているのだった。
「蜘蛛といえば、マルタさんの眼窩にかかっていたのも蜘蛛の巣だったよね」
ルナは顎先に手をやった。
「じゃあ、やったのはやっぱりリーザか?」
「即断するのはよくない。もっと話を聞いてみよう。マルタさんがいなくなる前の夜を覚えていますか?」
「どうせ、答えねえだろうさ」
だが返事はあった。
「母親なんてならなければよかった」
小声で、リーザは漏らした。
「どういうことだよ」
ズデンカは舌打ちした。
「子供なんて産みたくなかった。面倒がみきれないんです。わたしは母親に向いていなかったんです。それ以外道がなくて。親に言われるままに従って」
「もっと詳しく話せ」
「わたしはおかしいって言われます。世間の母親はみんなできてあたり前だって。わたしだけができないんです。家のことも出来ないんです。井戸から水を汲み出すのがしんどくて、雑巾は水浸しにしたままで……ちゃんと掃除ができないんです。それで、いつしか蜘蛛が……」
リーザはぶつぶつと呟いた。
「訳わかんねえよ」
「旅をしているわれわれは分からないかもね。でも、同じ場所でずっと暮らす生活を送る人にとっては? 身の回りをずっと整え続けるのは悪夢じゃないのかい?」
「旅の面倒事だって相当だぞ。お前は何もやってねえから知らねえだろうがな、ゴミ捨て、馬車の掃除やらベッドメイクやら全部やってるのはあたしで」
ルナはズデンカを遮った。
「マルタさんを殴っていたのは本当ですね?」
「好きになろうって努力はしました。でも、なんで泣きわめくの、言うことを聞かないのって。勝手に走り出すんです。どこでも漏らしてしまうし……ぜんぶ、わたしのせいじゃないのに」
「蜘蛛について話して頂けますか」
ルナは本題に入った。
「わたしが嘆いていたら、毎日泣いていたら、天井の隅に張った巣の中にいた蜘蛛が話し掛けてくれたんです。苦しく、辛いことがあるだろう、それなら外に出てみるのもいいって」
ズデンカは額を抑えた。
「あちゃー、こりゃよくあるやつだわー。自分がやったことを他の何かのせいにして誤魔化してるのさ」
「夜の奥からってのも気になりますね。そういえば、リーザさんは夜になると家を空けていた。それは他の人の証言からもはっきりしています。何か繋がりがあるんでしょうか?」
「糸が、蜘蛛の糸がわたしを導いたのです。風に震えることもなく蜘蛛の糸が一筋にドアの隙間から引いて、伸びていきました。わたしはそれを追って外に走り出たんです」
「なるほど。毎日毎夜ですか?」
「はい。歩けるだけ歩きました。足が進むままに。夜のひっそりして誰もいない街を歩けて、わたしは幸せでした。昼は買い物にしか行けないし、皆の目で射貫かれてしまうから」
「結局、どこまでいったんですか」
「あの子――マルタの見つかった鐘楼にです」
「わかりました。それにしても。あなたを導いたのはなんで蜘蛛なんでしょうね」
「小さい頃から昆虫に興味があって、昆虫なのに昆虫でない蜘蛛が一番好きだったんです。母親じゃない人生があったら、昆虫学者になりたかった。学歴も何もないってみんなから笑われたけど。だから、部屋の中にきた蜘蛛には、最初から関心を持っていました」
ルナは煙を吹かした。
「ありがとうございます。訊きたいことは訊けました」
「これでいいのかよ」
ズデンカはちんぷんかんぷんといったように首を傾げていた。
「実に面白い綺譚が聞けたよ。わたしは満足だね」
「事件が解決してねえじゃねえか」
「わたしは探偵じゃないよ。さあ、部屋に戻るとしよう」
ルナは歩き出した。ズデンカはすぐ後ろに続いた。
「いや、こっちはおさまらねえぜ」
「君が興味があるんだったら、明日はリーザの夫に聞いてみるとしよう」
「そりゃそうだ。決着のない話があってたまるもんか」
「決着がつかないお話の方が面白いんだよ。人生だってそんなもんだろ」
ルナは笑った。
「また、とぼける」
「さて、今夜のベッドメイクは寝心地良くやってくれるのだろうね」
「お前……」
ズデンカは呆れた。
「はい、リーザはだんだんおかしくなっていきました。それは町長さんも言ったとおりです」
言葉少なながら、木訥に靴屋は答えた。
「ここ一週間ばかり、ろくに食事も作らなくなって」
「リーザの飯はいつもまずいですよ」
居合わせた野次馬たちが言った。
「ほう。オットーさんの家で、他の人が食事することがあったんですね」
「評判の良い靴屋ですよ。人を招いて食事することなんてしょっちゅうです。町長さんだって来てましたさ」
「全部リーザさんが作っていたのですか?」
と訊くルナ。
ズデンカは目をつぶり腕を組んでいた。昨日の話を思い返すかのように。
「当たり前でしょう。食事は妻が作るものと決まってますからね。わたしらだって家で持てなすときは女房がちゃんと用意しますさ」
「偉人に毎日料理を作っていた人の名前は歴史には残らない。でも、それはなくてはならない行いのはずでは」
「わたしら男は単純ですからね。料理なんざ細やかなことは女の専売特許なんでさあ」
野次馬たちは笑った。
「なるほど。じゃあマルタさんはどんな方だったんですか?」
ルナはめんどくさそうだった。
「マルタは母親に似て大人しい娘でした」
オットーは答えた。
「リーザさんに虐待されているってご存じでしたか?」
オットーはしばらく呆気にとられた顔をした。
「何か二人の間であったとは知っていました。ですが、そこまで詳しく知りませんでした。今初めて訊かされましたほどで」
「へえ、ずいぶん他人事なんですね」
「オットーは本当に腕の良い職人なんです。こいつなしでは町がやっていけません。ペルッツさまが偉大な方だとは重々存じ上げていますが、負担を掛けるようなことは言わないでやってくれませんか!」
と、言うようなことを代わる代わる野次馬連中が叫んだ。
「そうですか。ほんとうにオットーさんは物静かな方だ」
明らかに皮肉を込めてルナは言った。
「職人とはそういうものですよ。喋るなんて野暮です。仕事さえちゃんとすればいいんだ」
野次馬たちは何としてもオットーを守るようだ。
「でも、リーザさんとの間ではどうだったんです。わたしは知りませんが夫婦はもっと会話をしているものでは」
「いえ、結婚以来、俺とリーザが話をすることは……あまりありませんでした」
オットーはそれだけ答えて黙った。
「なるほど」
ルナのモノクルが光った。
「マルタもね、母親をどこか恐がっていたんですよ」
町長は言い張った。
「やけにマルタさんのことをご存じなんですね」
「お聞きではありませんでしたか、家に何度か行ったのでね。あんな、不気味な女と暮らしていたら、そりゃどこかおかしくなりますよ。オットーもさっさと離縁して家から出していれば、あんなことにならずに済んだんだ」
「一度二人の家に伺わせて頂いてもよろしいですか」
「何も見つからないと思いますけどね」
町長は溜息を吐いた。
家は事件以後閉めきられていた。貰った合い鍵を使ってズデンカが開けた。ルナの手はしっかりカンテラを提げていた。
「こんな扉、ぶっ壊してもいいんだが」
「賠償請求されるよ」
「別にかまわねえさ、払うのはお前だからな」
「さて、『彼女』を探すとしようか」
相変わらずズデンカは無視してルナは家の中を見て回った。
靴を作る工具が置かれている部屋と食卓のある居間は劃然と仕切られている。釘抜きやワニと呼ばれる捩れた魚のようなペンチが、綺麗に並べられていた。
「なるほど、自分の仕事の場所にはいっさい妻を立ち入れさせなかった訳だな」
「おい、探偵になってるぞ」
ズデンカがルナの袖を突いた。
「いや、そうでもないよ」
ルナは部屋の隅を指差した。きらりと細く光るものが――蜘蛛の巣がそこにはかかっていた。
「おう、これがリーザの妄想の原因かよ」
「妄想とは限らないよ。綺譚ってそんなものだからね」
「答えになってねえー!」
ズデンカはわめいた。
「やあ、初めまして」
突如、一揖するルナをびっくりして見つめたズデンカだったが、やがて巣に背中が赤く、足が細長い蜘蛛がいることに気付いた。
「蜘蛛はまだそこにいたんだな」
「『彼女』は知っているよ。誰がマルタさんを殺したかね」
「雌なのか? 虫に答えられる訳ねえだろ」
「虫じゃないのだけどね。声を聞けるよ、リーザさんなら」
ルナは部屋を見回した。
「おや」
カンテラを近くのテーブルの上に置き、本棚へと歩いていく。
「リーザさんは字が読めたんだね。そういえば昆虫に興味があったって言ってたな」
ルナは何冊か取り出してページをぺらぺらめくった。
「子供向けの絵本もあるぜ」
ズデンカがルナの肩越しに首を突っ込んだ。
「リーザさんなりにマルタさんと触れあおうとしていたんだよ」
「殴るような親だぞ」
「問題はそこさ」
「なんだよ」
「わたしは探偵じゃないんでね」
「拗ねたのか」
ズデンカは鼻で笑った。
「そんなんじゃないよ。あった」
絵本の真ん中に畳んだ紙がおさまっていた。ルナはそれを素早く懐に隠した。
「なんだよそれは」
「後のお楽しみさ」
ルナはウインクした。
部屋の中には灯りが点されていてすっかり明るくなっていた。
役人に拘束されたリーザと町長、野次馬たちにオットーが入ってきた。
みな神妙な顔でルナを取り囲んでいる。
ルナがこの家に集まるよう指図をしたのだった。
「どうやら謎解きを期待しているようですね。でも、わたしは探偵じゃありません。代わりにこちらの『彼女』に語ってもらうとしましょう」
ルナの掌が差し出された。その上には標本瓶に閉じ込められた蜘蛛が動いていた。
「やっぱ根に持ってるな。言い出したのはお前だろうがよ」
ズデンカは呟いた。
瓶の蓋が外される。蜘蛛が這い出てきた。
「そんな蜘蛛、どこにだっているでしょう。何が目新しいんです?」
町長が鼻を鳴らした。
「よくご覧になってください」
ルナはライターでパイプに火を点した。途端にいつもとは違う量の煙がむくむくと部屋の中に満ち広がっていく。
「なんだこれは、周りが見えんぞ!」
野次馬たちが口々に叫んだ。
「『幻解』したな」
ズデンカはぽつりと口にした。
「わたしには、ひとつ奇妙な力がありましてね」
煙に覆われる中で、ルナのモノクルだけが鋭く光っていた。
「人の見た幻想をあらわにすることができるのです」
「だからどうした!」
野次馬たちは怒りを抑えきれなくなってきたようだった。
煙は次第に晴れていく。
すっと、幾つもの光が部屋中に乱反射していった。それが張り巡らされた蜘蛛の糸だと分かるまで時間は掛からなかった。
蜘蛛は糸を静かに這い進み、リーザの元へ辿っていった。
役人たちもしばらく呆気にとられていたものと見え、リーザから手を離した。
「蜘蛛さん」
リーザはぽつりと漏らした。
自分から歩み寄って、指先で蜘蛛の背を撫でた。頬は涙で濡れていた。
「来てくれたんだね、夜の奥から」
「わたしはただ、あなたにこの部屋から出て欲しかった」
声が聞こえた。多少くぐもっていはしたが、蜘蛛が喋っているのが分かった。
「面妖な! 取り押さえろ」
町長は怒り狂って叫んだ。我に返った役人たちがリーザを引き離す。
「リーザもリーザだ。お前は人の親なんだぞ。蜘蛛さんだとか、子供みたいなことを口走ってどうなる?」
ズデンカは無言のまま拳を握り締めて震えていた。
ルナはその手を軽く押さえた。
「まあ待って。君は言葉とは裏腹だね。あんなにリーザさんを悪く言ってたのに」
「そんなんじゃねえよ」
それには答えず、ルナは蜘蛛へ話し掛けた。
「蜘蛛さん、この部屋で何が行われたかご存じですね」
「この部屋でマルタは虐待された。そして殺された、町長に」
「だ、そうですよ。町長さん?」
ルナは笑っていた。
顔を真っ赤にして身を震わせる町長を前に、野次馬たちが口々に叫んだ。
「町長はボッシュの抵抗の英雄なんだぞ! 腹話術か知らんが、何てことを言うんだこの女は! 名高い人だと聞いたからご客人として扱ってやったが、もう我慢ならん」
「お前のやっていることは名誉棄損だぞ! 分かっているのか!」
町長はやっと怒鳴り声をあげた。
「マルタのあざはリーザが付けたものだけではなかった。虐待を知っていた町長はそれを利用してマルタを嬲った」
蜘蛛は粛々と事実を告げる。
「町長はマルタが吐いても殴り続けた。オットーは顔を背けてそれを見なかった」
オットーは陰鬱な表情を浮かべたまま黙りこくっていた。
「毎夜毎夜犯され続け、靴作りの商売道具でマルタは殺された。目を抉り抜かれて、三日納屋の中へ。その後に……」
蜘蛛は黙った。
「それじゃあ、マルタさんの眼窩に蜘蛛の巣がかかっていたのはどうしてですか?」
ルナは訊いた。
「わたしはあの鐘楼に悪い気が集まっていると知っていた。リーザに知って貰いたかったのだ。だが、それがマルタのことだとは分からなかった。だから、マルタが殺されたとき、わたしは一夜かけて鐘楼を登った。小さな身体で、時間は掛かったがマルタの元へと辿り着いた。小さくて何も出来ないわたしは、その開いた目を閉じてやろうと、糸で覆ったのだ。それすら、朝がくるまで満足に出来なかった。明るくなればわたしは去らないといけない」
オットーがいきなり立ち上がった。頭を抑えて叫んだ。
「その通りだ! 俺は言えなかった。神すら許さぬことを。俺の娘に! 俺は言えなかった! 仕事がなくなるのが怖かったからだ!」
「何を言うオットー! お前は疲れているんだ。落ち着け!」
焦って泡を吹く町長。有り余った贅肉が服ごとたぷたぷと動いていた。
ルナは平然としていた。
「わっ、わしはやっていない。やったのはリーザだ!」
「幾ら問い質しても、こればっかりでしょうね。あくまでわたしは探偵ではないので」
ルナはまた煙を吐いた。
「何をやったかはやった『物』に訊いてみましょう」
と、オットーの仕事部屋へ歩いていった。
「おやおや、不思議ですね。オットーさんはリーザさんには自分の仕事部屋に一ミリたりとも立ち入らせなかったのに、目上の町長さん各位には平気で使わせたんですねー」
靴作りの道具へ煙を吹きかけながらルナは言った。
「さて、何が行われたんでしょうね。楽しみだなぁ」
やがて、ふわりと金槌が宙に浮かび上がった。町長の顔先へと勢いよく飛んでいき、したたか殴り付けた。
声にならない叫びを上げて、町長の巨体は地面にひっくり返った。
金槌は凄い勢いで何度も打ち下ろされた。骨が砕ける鋭い音が響く。
「町長さんに何をするんだ!」
野次馬たちや役人は顔を真っ赤にしてルナに詰め寄せてきた。
その前にズデンカが立ち塞がる。
「退けろ、メイド風情が!」
ズデンカを押しのけようとする男たちだったが、
「いででででででっ!!」
その一人がへし折られるぐらい強く腕を掴まれて声を上げた。
「あぁ? 死にてぇのかぁ? なら一人づつ血をすすってやるよ!」
ズデンカは牙を鋭く伸ばし、赤い舌をなめずらせていた。
「あ、言い忘れてた。ズデンカは吸血鬼なんで。よろしく」
立ちすくむ野次馬たち。
リーザは目を覆っていた。
その間、町長は金槌でぼこぼこにされていた。服は引きちぎられ、肥満した肉が爛れて見えていた。
「金槌はきっちりマルタさんを殴った回数だけ反復しているからね」
軽やかな曲線を描いて釘抜きが舞い、町長の股間へと突きたてられた。
「ぎょ、ぎょええー!」
涙と涎を垂らしながら、ぶざまに犬のように腕を動かして町長は叫んだ。
「あー潰れたんだ。この場合、相手にどんなことをやったのかな?」
とうとう、ワニが目覚めた。工具の尖端に目玉がぎょろりと開き、部屋の中を
見渡した。 ゆるゆると宙へと浮かび、町長目指してすっ飛んでいった。
「やめてくれえっ、やめてくれっ、それだけは」
釘抜きを突き立てられたまま、町長は惨めに繰り返した。容赦もなくワニはその眼球へとかぶりついた。えぐり出す。
もう一匹が現れた。またえぐり出す。
町長の眼球を咥えて、勝ち誇ったようにワニたちは踊り狂った。
オットーはそれをまばたきもせずに見つめていた。
野次馬たちもポカンと口を開くばかりだ。
「さて、どうするのかな?」
ルナは蜘蛛へ言った。
小さかった蜘蛛は、町長へと向かっていった。糸はそこまで伸びていたのだ。蜘蛛は次第にその姿を大きくしていく。
光をなくした町長は、蜘蛛の姿を確かめることが出来ない。ただ、身を打ち悶え、くねらせながら芋虫のように床を這いずるだけだ。
蜘蛛は一息にその首をねじ切った。そして、それを抱えたまま部屋の扉から走り出て行った。
「蜘蛛さん、蜘蛛さん」
いきなり叫んで、リーザは後を追って走り出した。
怖じ気づいた役人たちは追っていかない。
「行こうか」
ルナはズデンカに声をかけた。
ズデンカは他の連中を牽制しながら後ろ向きに歩き、ルナへ従った。
蜘蛛は夜の中を駆けた。ルナとズデンカはカンテラを持って続いた。
鐘楼に足を掛け、登っていく蜘蛛。
わずかに残っていた町の人々は巨大な蜘蛛を指差した。
蜘蛛は風見鶏の尖端へ至り、町長の首をその上に突き刺した。
そしてゆっくりと地面にいたり、引き返してきた。
「蜘蛛さん」
血で汚れた蜘蛛を、リーザは抱き締めていた。
ルナはゆっくり二人の元へ近付いていった。
「残念だけど、この綺譚は収集させて貰うよ。この世に長くいてはいけないものだ」
ルナは懐から古びた手帳を取り出した。そして鴉の羽ペンをページへあてた。
蜘蛛の身体が少しづつ、黒い砂のように崩れていった。それが羽ペンの先へと集まっていった。それをインク代わりにルナはさらさらと早い筆致で書き付けた。
「いやだ、離れたくない」
リーザは涙をこぼしていた。
「なぜリーザはここまで蜘蛛にこだわる」
ズデンカは怪訝そうだった。
「誰からも蔑まれて、その中で自分を守ろうとしてくれた存在さ。それがたとえ人ではなくともね。でもね、リーザさん、あなたを思ってくれていたのは蜘蛛だけではないですよ。はい、これを」
絵本の中に挟まれてあった紙が広げられた。
「何だこりゃ?」
ズデンカは驚いた。そこには何か二つの人のようなものを描いた下手な絵が描かれていたからだ。
「マルタ!」
リーザは気付いたようだった。ルナの手からその紙をひったくると、抱き締めた。愛おしむかのように。
「この町という狭い世間から見れば、リーザさんは母親としては失格だったかも知れない。でも、マルタさんは父ではなく母を描いた。これは実に興味深いことだと思わないかい?」
ルナはズデンカに目配せを送った。
「そういうことか」
ズデンカは項垂れた。その瞳は少し潤んでいた。
「もらい泣きか。実に君らしいな」
「んなもんじゃねえよ」
ルナはリーザへ近づいた。
「さて、リーザさん。わたしはあなたの願いを一つだけ叶えることができます。と言っても、命に関わるものはなしです。失われた命は帰りません。わたしにできる範囲はごく少ない。さあ、何を望みますか?」
リーザはルナの耳元へ身を寄せて、何事か呟いた。
「わかりました。それじゃあ失礼ながら」
と言って、ルナはリーザの頭にさっと手をやった。
とたんにリーザは眠りに落ちた。
パイプからまた煙が流れる。それが街中へと広がった。
「さ、この町とはもうおさらばだ。長居しても良いことはなさそうだからね」
ルナはそう言って先へすたすたと歩き出した。
「何をやったんだ」
「単純なことだよ。リーザさんはマルタさんや自分が母親だった記憶を忘れる。また、町の人たちもリーザさんを忘れる。世間はもうやもめのオットーさんの娘が町長によって殺され、何者かが報復として殺害したと認識しているよ。容疑者として一番疑われるのはオットーさんだけど、彼はその濡れ衣を甘んじて着るだろう。リーザさんは周りのしがらみから解き放たれて、晴れて天涯孤独の身になる」
「なんでマルタを忘れさせるんだよ!」
ズデンカは食ってかかった。
「むごたらしく殺された娘の思い出は、彼女の心を蝕むのだろう。自分のせいでと思ってしまって。それぐらいは想像を働かせなきゃね」
「そりゃ……! だがなぁ」
ズデンカは口ごもった。
「昆虫を調べたいんだそうだ。そして、いつかあの蜘蛛と同じ種類のものを見付けたいらしい」
「そこまで……」
「しがらみの中で生きるより時には孤独が幸せなこともある。もちろん、上手く生きていけるかは別だけど」
「んな、無責任な」
「無責任になるしかないよ。人は誰でも他人の人生の傍観者さ」
「けっ、うまいこと言いやがるぜ」
「リーザさんが事件に関わったのを知るのは我々だけだ。遠からず我々の消滅で闇に葬られる。もっとも、君のそれはだいぶ後になるだろうけど。でも、口外しないよね?」
「しねえよ。つーか縁起でもないこと言うな!」
ルナは悪戯っぽく舌を見せた。
「ところで、さっき町長の家でくすねてきたんだが」
と言ってズデンカは懐から一冊の本を取りだした。そこには禍々しいばかりの金文字で『鐘楼の悪魔』と記されていた。著者の名前はない。
途端にルナは深刻な顔つきになり、それを手に取った。
「前に何度か見たぞ。おかなことをしでかした奴の家にはみんなこの本があった。何か関係があるんじゃねえか? しかも鐘楼だ。イカレてるとしても、なんであんな目立つようなことをする」
躊躇わずルナはライターをその本へ点した。
「内容はもう知ってる。もっともわたしが読んだものと町長の読んだものが同じって保証はないけどね。他の人が読んだら大変だ」
瞬く間に炎は燃え上がり、本は真っ黒焦げに変わって風の中へ四散していった。
「しけた幻想に報いあれ、さ」
舞い上がる焦げを見上げながらルナは言った。
「本を焼くものはみずからもまた焼かれる――そう言ったのは誰だったっけな」
ズデンカは意地悪く言った。
「引用間違えてるよ。まあいい。焼かれて終わるのは最初から分かってる」
ルナは笑った。
「また、縁起でもねえことを!」
ズデンカは両手を振り上げて怒鳴った。
「君がまいた種だろ?」
言い合う二人を照らす月光は、鐘楼の風見鶏の上で目を抉られ、口を開けてまぬけ面を浮かべた町長の首にも惜しみなく振り注がれていた。
オルランド公国南端エンヒェンブルグ――
「おい、ルナ!」
シャワー室の磨りガラスが嵌められた扉をノックする音。
何度も繰り返されるが返事はない。
激しく扉が蹴破られ、ズデンカは中へ躍り込む。
「こりゃ、また弁償だな。って、おい、ルナ」
ルナが突っ立ったまま青い顔になって、天井に設置された鉄の管に開いた穴から流れるシャワーの滴りを見つめていた。
「いきなりどうした? 固まって」
撒かれる水に打たれるまま、ルナは返事がなかった。目はうつろになっていた。傍目からわかるほど震え、怯えていることが分かった。
「あ……君か」
「何が『あ』だ! どうしたんだよ。水、冷たいんじゃないのか?」
ズデンカは水滴を手で受けたが、その肌は熱さや冷たさを感じ取ることができない。ただ、ルナの唇の色と全身が震えていることから判断したまでだ。
急いで蛇口を捻り、水の流出を止める。
「お前ら生身の人間は……風……邪引いちまうだろ。肺炎、だったか? になったらどうする」
と言いながら掛けてあったタオルでルナをくるみ、外へと連れ出した。
「せっかく設備の整っているホテルにしたのに、こんなざまじゃ元が取れねえ。さあ、暖炉に当たれ」
ズデンカはタオルを足してルナをグルグル巻きにした。
ルナはなかなか答えなかった。ズデンカは不安になり、あたりを見回した。
ルナと一年近く旅をしているズデンカだったが、いつも強気なルナがこんな状態になったことは初めてだった。まあ、ズデンカにとって一年などあっという間だが。
「やっぱり、風邪を引いたのかも知れないな」
「そんなんじゃないよ」
タオルにくるまったルナが答えた。その声は弱々しかった。
「何かあったんだろ? 教えろ」
髪を綺麗に拭いてやりながらズデンカは訊いた。
「大したことじゃない」
「じゃない、じゃないって、そればっかだな!」
ズデンカの声はわずかに潤んでいた。
「涙もろいな、君は」
軽口を叩ける程度は余裕が戻ってきたのか、ルナは言った。
「過去に何かあったんだろ?」
ズデンカはぽつりと言った。
「言いたくないんだ」
「あたしにもか」
「君は、わたしの何だっけ?」
珍しくルナは顔を伏せていた。
「さあ、なんだろうな。家族でも友達でもない。ただ旅してる相手だ」
「なら、言う義理はない」
ルナは強情だった。
「言わないならいい」
ズデンカは黙った。二人はしばらくの間黙っていた。
「……抱きしめて」
「は?」
ズデンカは驚いてルナに振り返った。いきなり何を言い出すのだと思ったからだ。
「二度は言わない」
ズデンカは無言でルナに近づき、両腕を広げてタオルごと覆った。
「これで……いいのか」
「ありがと」
「怖かったんだろ」
「ちょっとね」
「ちょっと、じゃねえだろ」
「うん」
「やっぱり」
ズデンカの長いウェーブする黒髪はルナの顔をすっかり隠していた。
「息苦しい」
「そうか」
ズデンカは退けなかった。
「もういいだろ。ちょっとやって貰いたかっただけなんだ」
「いや、ルナはもっとこうしたがってる」
「そんなこと……」
「あたしには言えないけど、昔怖いことあったのを思い出したんだろ。抱きしめてもらいたいんだろ、なら、そうしてやるよ」
「……」
ルナは何も言わなかった。
「お前の言う通り、人は誰もが他人の人生の傍観者だ。あたしは人なのかも分からないけどな。お前のことは何もわかんねえよ。でも苦しいなら、あたしがこうしておいてやろう」
ルナは黙って俯いたままでいた。
何も言わないまま二人はそうやって過ごした。ときおりズデンカは、
「寒くないか」
とルナの耳元で囁く。
「むしろ暑いぐらいだ。バスローブが欲しい」
「あたしが着換えさせてやるよ」
「いい。自分でする」
だが、なかなかズデンカはルナを離そうとしなかった。
「まだ身体が凍えてる」
「……」
沈黙が続いた。ズデンカはいつしかルナが寝息を立てていることに気付いた。
名残惜しく身を離し、自分のベッドにあったものも剥ぎ取り二重にした毛布を掛ける。
「明日は軍事パレードか。まったく金ばかりかけやがる」
暖炉の炎を見つめながらその熱さを感じ取ることの出来ないズデンカは、皮肉屋のルナならパレードで雇用が発生するなら御の字じゃないか、と言うだろうと思った。
第二話 月(ルナ)は笑う――幻想怪奇蒐集譚 第二話 タイコたたきの夢|浦出卓郎 (note.com)
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