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深夜の吉祥寺と小さな至福

記憶の中の映画館、第三回。バウスシアターの思い出。

吉祥寺のメイン商店街の奥にある、どこかヨーロッパ風な小さい広場の奥にある階段を上っていくと、バウスシアターにたどり着く。中に入ると、鉄骨がむき出しになっている天井が、インディーズならではの無骨な香りを醸し出す。商店街の中にあるのは間違いないけれど、通りからは隠れていて、まるで秘密基地に潜り込むような悦びがそこにはある。

バウスシアターは、僕の知る限り最も懐の広い映画館だった。最新のファミリー映画やハリウッド映画を上映するのは勿論だけど、その一方で、一部のコアな映画ファンしか飛びつかないであろうニッチな映画特集も毎週のように組んでいた。映画館の入り口前のチラシ置き場には、大作映画に混じってよくわからない自主映画特集のチラシが置かれていた。バウスシアターの懐の広さは、映画という文化が持つ奥深さそのものだったように思う。

夏休みや年末の大作映画が、大手の劇場とバウス両方で上映されている場合、僕は迷わずバウスを選んだ。理由を説明するのはなかなか難しい。一言で言えば「バウスが好きだから。」だった。細かく説明しようと思えばできないこともない。インディーな感じがかっこよかった、自分だけが知っている場所のように思えた、個人経営の映画館を応援したかった、云々。しかし、どれも後付けの理由のようにも思える。僕にとっての好きな場所というのは、理由付けが必要ないから好きなのである。

学生時代の僕にインパクトを与えた映画監督の一人に、エミール・クストリッツァがいる。彼の映画の持つエネルギー、破壊力、想像力は、他の映画監督の誰をも圧倒していた。

学生時代の僕の不幸は、彼の名作がすでに過去の作品であったことだった。DVDで鑑賞し、感動し、色々な人の解釈やレビューを見るたびに必ず書いてある文言が、「これぞまさに映画だ」という常套句。「アンダーグラウンド」や「黒猫・白猫」をリアルタイムの劇場で見れなかった悔しさが、わがままな映画ファンの心の片隅に小さな影を落としていた。

しかしバウスが奇跡を起こした。『エミール・クストリッツァ特別上映「黒猫・白猫」レイトショー』。まさに自分のための企画だ。心の底から震えが止まらなかった。

10月某日。上映当日は翌月に控えた文化祭の、コントサークル準備当日であった。レイトショーの開始時間は10時過ぎだったので、コントの練習終わりに直で向かえば丁度よく間に合うはずだった。

10時を過ぎてもコントの練習は終わる気配を一切見せなかった。ただでさえ準備が遅れていて、なおかつ自分が指揮をとっている立場なので、途中で抜けるなんて許されなかった。そしてどういうわけかこの日に限って、コントサークル全員の士気が高く、練習に熱が入っていた。「よりによってなぜ今日なのか…」恨み節を飲み込みながら、ツッコミのタイミングを必死で吟味した。

全てを片付け学校を出た時にはすでに10時を回っていた。急いで井の頭線に乗り込み吉祥寺へ向かった。商店街の端っこにあるバウスシアターまでの距離は短くなく、それでいて深夜の静かな商店街を駆け抜けるのは思春期の羞恥心が許さなかった。それでも出来る限りの小走りでシャッター街を抜けていった。

チケット売り場は既に閉まっていた。着いた時にはもう映画が始まって20分ほど経っていた。誰かスタッフが残っていないかと周りを見渡したが、誰もいなかった。劇場の方からは『黒猫・白猫』の音が漏れていた。モギリもいなかった。無賃乗車すらできない小心者の僕であるが、その場所を離れるという選択肢はなかった。映画の引力に引っ張られ、劇場の扉を静かに開けて、ふらふらと中に入り一番後ろの席にちょこんと座った。観客は4人だった。

尊敬する映画監督の傑作が自分の視界を包み込む。安堵にも似た喜びだった。深夜の東京の片隅で、日常の倦怠を忘れ至福に身を委ねた孤独な観客たちが、バウスの懐に包まれていた。

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