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どうする関ヶ原、家康の「私婚」問題で政権分裂(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、「どうする関ヶ原」を書いてみました。今回は、徳川家康の「私婚」事件を描きたいと思います。よろしくお願いいたします!
 前回のお話は、以下をクリックしてください。

 1599年1月10日、7歳の豊臣秀頼は、京都伏見城から大坂城へ移りました。このとき、伏見に残った家康は、大名との間で婚姻を進めていました。秀吉は五大老間の婚姻を勧めていましたが、それ以外の婚姻は厳しく制限していました。この家康と他大名との婚姻は、他の四大老、五奉行との間で、深刻な対立を生むことになりました。

(家康の婚姻問題)
 1599年1月21日、四大老と五奉行は、伏見の徳川家康のもとへ、三中老(中村一氏、生駒親正、堀尾吉晴)を遣わし、家康が秀吉の遺命に背いて、大名との婚姻を進めていると詰問しました。
 婚姻の対象となったのは、伊達政宗(陸奥岩出山58万石)、福島正則(尾張清洲24万石)、蜂須賀家政(阿波徳島18万石)です。伊達とは、家康の六男と政宗の娘、福島とは、正則の嫡男と家康の養女、蜂須賀とは、家政の嫡男と家康の養女がそれぞれ婚約していました。
 伊達政宗とは、家康が秀吉の臣下になる前、北条を通じて同盟を結んだ経緯があり、政宗は以前より家康を頼りにしていました。会津の上杉景勝にとっては、南北から挟まれる形となっており、嫌悪感を持ったと思われます。
 福島正則は、秀吉の従弟(母が秀吉の父の妹)であり、前回、述べた青木一矩(母が秀吉の母と姉妹)とともに、四位の位、羽柴姓を与えられており、譜代大名の中では、筆頭でした。本来は秀吉を守るべきは自分という自負があり、官僚である五奉行を嫌悪していたと考えられます。正則はまた、尾張清洲という枢要地を領有しており、関係強化は、地政学上、大きな意味を持ちます。
 蜂須賀家政は、父正勝以来、秀吉譜代の大名です。領国阿波は、大坂湾を経て、大坂につながる枢要の地です。第二次朝鮮出兵時、軍規違反を監察の福原長堯(豊後府内12万石)らに報告され、秀吉から叱責を受けて帰国して蟄居を命じられます。福原は、石田三成の妹婿で、他の監察武将も三成と親しかったので、三成への敵意が生じた可能性があります。当時、三成は会津、越後出張中でしたので、福原らの秀吉への報告には関与しておらず、福原の報告を受け入れた他の四奉行に敵意を持っていたのかもしれません。家康との婚姻は、家政のうっ憤を晴らす有難いものであったでしょう。
 なお、黒田長政(豊前中津12万石)も、家政と同様な理由で、秀吉の怒りを買っていましたが、帰国は命じられませんでした。

(家康の武力威嚇)
 家康は、三中老の詰問に対し、「自分を除去する動きは秀吉の遺命に背く。何だったら引退して、嫡男の秀忠に五大老を譲る」と述べました。秀吉の遺言では、「家康と前田利家に何かあれば、それぞれ息子の秀忠と利長が代わる」とされていました。家康の謝罪を期待していた四大老・五奉行側は、非を認めない対応に窮してしまったようです。
 また、このとき、家康は関東より軍勢を集めていましたので、一触即発の危険もありました。明言はしなくても、軍事発動の風説を流し、四大老・五奉行側に揺さぶりをかけたようです。伏見の騒然とした状況は、公家などの日記に記録されました。こうしたやり方は「威力偵察」的なもので、家康が武力を使う可能性があると相手に思わせることで、相手の強硬策を封じるというものでした。
 家康への詰問については、四大老・五奉行側が家康をどこまで追い落とすか、明確な一致、取決めがなかったようです。対家康で強硬意見と融和意見があり、まとまらなかったとみられます。
 なお、このとき、家康屋敷に、加藤清正らが集まり、防衛したという話は、現在、真否を疑問視する見解も出ています(こちらは公家などの日記に書かれていないため)。

(増田・石田の毛利取り込み)
 四大老・五奉行の中で、家康をどう扱うかは、最終的に秀頼の補佐である前田利家が決めることになり、娘婿の宇喜多秀家はこれに従います。上杉は、家康と伊達の婚姻を警戒せざるを得ません。立場が微妙なのは毛利輝元です。ここで、増田と三成は連名で1月23日、毛利輝元の養子秀元も領地問題で輝元に有利な意見を述べます。
 秀元はもともと毛利の世継ぎで、秀吉のお気に入りでしたが、輝元に子秀就が生まれたため、分家を立てることになりました。秀吉は遺言で、出雲、石見を指定していましたが、三成らは、出雲、隠岐、伯耆三郡と指定しました。秀元にとっては領地が減り、本家の輝元にとっては直轄領が増えた形となりました。輝元は、増田、三成に感謝したことでしょう。

(両者の和解と前田・家康の相互訪問)
 2月5日には、五大老、五奉行の間で和解が成立し、誓紙が交わされました。家康が詫びる形となり、婚姻はとん挫しました。加藤清正など秀吉子飼いの大名に影響力を持つ大老の前田利家の影響力は大きく、四大老・五奉行という9名の意見に家康は抗し続けることはできませんでした。家康の敗北とも言えますが、家康は、この騒動で誰が自分に敵対し、味方し、中立するか、見定めを行ったと思われます。
 私婚問題の家康追求の核心は、五奉行です。五奉行は秀頼成人まで、成人後も自分たちが変わらず政権の運営を担うことが目標でした。これは秀吉の遺言でした。家康など五大老が婚姻など事実上の同盟により、力をつけることには警戒していたのです。五奉行は、四大老を説得し、家康を追い落とそうとしたのかもしれません。しかし、四大老は家康と一戦交える考えは乏しかったと思います。五奉行は政権運営の安定を第一に考えますが、四大老は自分の家の安泰を第一に考えていたのでしょう。このことを家康を見抜いたと思われます。
 2月29日、和解の証として、前田利家が伏見の家康を訪ねます。3月11日、家康が大坂の利家を返礼として訪問します。家康は藤堂高虎(伊予板島8万石)の屋敷に泊まりました。藤堂高虎は秀吉の弟故秀長の元家臣であり、秀吉死去後、急速に家康に接近していました。家康は二度、利家と面談するわけですが、利家はこのとき、相当衰弱しており、家康は利家の死期が近いのを悟りました。
 
(前田利家死去はxデー) 
 家康は、前田利家の死期が近いのを見計らい、五奉行、中でも石田、増田を追い落とす策略を施したようです。関白豊臣秀次失脚時に連座し、冷遇されていた細川忠興(丹後宮津12万石)を中心に、加藤清正(肥後熊本20万石、母が秀吉の母と従妹とされる)、浅野幸長(浅野長政の嫡男)という利家に近い大名で、朝鮮の陣で論功がなかったことに不満を持ち、奉行に恨みを持つ三人、蜂須賀家政、黒田長政という朝鮮の陣のけん責で、奉行に恨みを持つ二人、秀吉に重用される五奉行を嫌う譜代筆頭の福島正則、加えて、家康の側近化した藤堂高虎の7人のグループをつくります。前田利家の死去が、石田、増田らを追い落とすxデーになります(つづく)。

 


 


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