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どうする関ヶ原、秀頼の大坂移住で家康孤立?(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、「どうする関ヶ原」を書いてみました。天下人豊臣秀吉の死去から、関ヶ原の合戦までの政治のドラマを描きたいと思います。よろしくお願いいたします!

(10名に委ねられた政権)
 1598(慶長3)年8月18日、豊臣秀吉が居城の伏見城で死去しました。跡取りである息子のの秀頼は当時、まだ6歳と幼少であったため、秀吉は亡くなる前に、有力大名(五大老)である5名と、最高級行政官(年寄、五奉行)である5名の計10名に政権の運営を託しました。
五大老は、以下のとおりです。
徳川家康(領地石高は関東255万石、官位は正二位内大臣)
前田利家(加賀80万石、従二位権大納言)
宇喜多秀家(備前57万石、従三位権中納言)
上杉景勝(会津120万石、従三位権中納言)
毛利輝元(中国112万石、従三位権中納言)

五奉行は、以下のとおりです。
前田玄以(丹波亀山5万石、寺社・京都担当)
増田長盛(大和郡山22万石、全般・土木担当)
長束正家(近江水口5万石、財政担当)
石田三成(近江佐和山19万石、全般・行政・京都担当)
浅野長政(甲斐22万石、全般・司法担当)

 このうち、奉行の5人は秀吉存命中から、政務を担当していましたが、五大老が新たに加わり、五奉行とともに政治決定をする仕組みとなりました。
奉行としては、五大老の存在は、うっとおしいものになります。
今までは、秀吉の意向に従い、あるいは長年の経験で「忖度」ができ、政務を行ってきました。できるだけ、五大老は政務に口を挟まないでもらうのが最良です。
(五大老)
 秀吉の遺言で、家康は三年間、伏見に留まることになりました。前田利家は秀頼の補佐となりました。五大老のうち、この二人の発言力が高くなります。
 五大老の中では、家康が突出した高い地位にありました。五大老の序列も上に書いたとおり、筆頭ですし、領地も多く、当然軍事動員できる兵も多く、官位も高い。また嫡男の徳川秀忠の妻は、秀吉の養女の江(小姫)であり、その娘と秀頼の婚姻が、秀吉の遺言で決められていました。秀頼の母淀と江は姉妹でした。秀吉から「東国のことは任せる」と言われていました。

 前田利家は、秀吉の若い時からの友人であり、尾張出身でした。こうした地縁から、秀吉夫人の北政所、尾張出身の秀吉子飼いの大名、浅野長政、加藤清正などと親しい関係にありました。娘の豪姫は2歳から秀吉の養女となっており、宇喜多秀家夫人となっていました。こうした条件から、利家は家康をけん制する役割が任せられていたと言えます。

 宇喜多秀家は、幼少より秀吉が育成した大名で、上に述べたとおり、前田家、そして北政所と深い関係にありました。まだ27歳と若く、五大老の中での発言力は小さかったと言えます。このため、秀家の娘が、毛利輝元の嫡男である秀成に嫁ぐこと、毛利輝元が秀家の後見になることが、秀吉の遺言で決められていました。

 上杉景勝は、1583年の秀吉と柴田勝家との戦い当時、つまり、外様大名の中でいち早く、秀吉方となっており、家老の直江兼続とともに、秀吉のお気に入りでした。1590年の北条氏との合戦までは北関東の国衆との取次(連絡調整)、奥羽(伊達政宗など)と関東(徳川家康)の抑えとなる会津への国替えを命じられるなど、秀吉より高い信頼を得ていました。秀吉死去の8月当時は、領国会津におり、10月に上京し、政治に参加します。

 毛利元就は、養子の秀元の夫人に、秀吉の弟故豊臣秀長の娘を迎えていました。また、慶長の朝鮮出兵(1597~)で、朝鮮南部の支配を目指す秀吉にとって、中国地方を領する毛利は、地理的にも重要視する存在でした。秀吉から「西国のことは任せる」と言われていました。

 こうしてみると、五大老の中では、前田と宇喜多の結びつきが強く、宇喜多と毛利はこれから、となります。

(五奉行)
 なお、五奉行では、石田三成が有能で発言力が高かったと考えられます。また、多くの大名の取次をしており、親しい大名も少なくありませんでした。また、浅野長政が他の四人とは距離がある状況でした。かつて浅野長政、幸長親子が秀吉の怒りを買った際、家康(利家も)がとりなしたことから、家康と親しかったとされます。

(1598年の政治構造)
 
さて、秀吉死去直後の政治構造の特徴として、以下が指摘できます。
五大老は、「実質的に」対等という関係でなく、家康と前田が、優位にある体制でした。家康は在京して政務をみる、前田は秀頼の補佐、と役割が秀吉の遺言で決まっていますが、他の3人にはとりたてての役割は決められていませんでした。秀吉の遺言で、五大老は互いに婚姻することとされていました。家康と前田は、自らの優位を維持したい、他の大老は、五人が対等になるのがよいと考えていたと推察します。

②実際の政務を執行していくのは五奉行ですので、五大老は、五奉行と友好関係を築くか、五奉行を指揮下に置かなければ、政治的影響力を具現化できない状態です。

③五奉行としては、自分たちは、秀吉生前同様の政治を秀頼成人までやりたいという考えであったと思われます。できるだけ五大老に邪魔されたくない。

④朝鮮出兵中であり、朝鮮との講和と撤兵を実施する必要が、喫緊の政策課題としてありました。

⑤朝鮮在陣の大名には、加藤清正ら秀吉子飼いの武将がおり、彼らの帰国後の政治的行動が不安定要素でした。

⑥秀吉の遺言で、秀頼、利家の大坂居住とともに、東国大名は大坂居住、西国大名は伏見居住と決められています。

  朝鮮からの撤兵作業のために、筑前に、担当者(実際には石田三成、浅野長政、毛利秀元。筑前は当時、豊臣直轄領であり三成、長政、毛利は管理者)が向かう必要があるのですが、五奉行としてはそのまえに、五大老と五奉行の協力体制を敷いておく必要がありました。
 当時の記録では同年8月、「三成と家康の間の不和があった」(具体的な理由は史料では分かりません)とされています。また、毛利輝元は8月28日、「(浅野を除く)四奉行に対して彼らを支持する」という内容の誓紙を四奉行と交わしています。この誓紙は三成の訂正加筆を受けており、四奉行の毛利取込みの意図がうかがえます。

 政策決定について不安定な状況にあったようですが、9月3日、五大老、五奉行の10名は、「多数決で決する」という内容の誓紙を取り交わし、形の上で、協調体制をつくります。これを受けて、三成、浅野長政、毛利秀元は9月下旬、筑前に向かい、現地で朝鮮在陣の諸兵の撤収作業を指揮します。同年12月11日前後には撤兵は終了し、筑前にいた三成らも同月24日に伏見に戻ります。

(朝鮮の陣の論功行賞)
 1599年1月9日、五奉行のリードで、五大老が連署して、朝鮮の陣の論功交渉が行われます。
○島津忠恒に、泗川(サチョン)の戦いの功績として5万石が加増(薩摩の豊臣直轄領、薩摩の寺沢、宋領など)
○寺沢広高、宋義智に筑前、肥前で代替地
 実際に、朝鮮を領有できていないので、新たに与える領地はありませんでしたが、長年の苦労と多大な出費をした大名は不満が高まったことでしょう。
 同時期に、越前の小早川秀秋の筑前復帰が内定します。筑前は豊臣直轄領になっていましたが、朝鮮出兵がなくなったので直轄領にする必要がなくなったこと、秀秋は北政所の甥であり、秀頼を支える一門として厚遇された形です。秀秋の旧領には、秀吉の従弟である青木一矩が入りました。

(秀頼の大坂移住) 
 1599年1月10日、秀頼は大坂城へ移ります。補佐役の前田利家、北政所、淀殿、宇喜多秀家、石田三成、浅野長政も大坂に移ります。伏見には、徳川家康、上杉景勝、毛利輝元と3奉行となります。また、大名は、秀吉の遺言で、東国の大名は大坂、西国の大名は伏見在住となりました。
 秀頼の大坂居住後、家康は伏見のままで秀頼と切り離されました。五大老の中で、前田、宇喜多の影響力が高まる可能性がありました。
 ここまでは、秀吉の遺言どおりに進んでいます。家康は、自身の地位の低下を望んでいなかったでしょうし、地位の上昇を望んでいたでしょう。そのためには、前田優位体制と五大老協調体制を覆す必要がありました。そこで、家康が取った策は、多数派工作、具体的には、大名との間で婚姻を進めました。秀吉は五大老間の婚姻を勧めていましたが、それ以外の婚姻は厳しく制限していました。この家康と他大名との婚姻は、他の四大老、五奉行との間で、深刻な対立を生むことになりました。





 

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