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【短編小説】空気に何が書いてある(10/10)

「空気を読めない人間は教科書だって読めなくていいって、みんながボクの教科書を破るの」

 いくら動機がないからって、一度でも失敗してしまえば次はない。

 一度で確実に。

 でも、殺鼠剤が多すぎては匂いや味で簡単に老婆に気付かれてしまう。

 必要最低限の量を見極めなければならない。

 でも、どうやって?

「帰ろうと思ったら、下駄箱の靴がなくなってるの。学校中のゴミ箱を探しても、どこにもないの」

 そうだ。

 突然、女は閃いた。

 身近にいるじゃないか。うってつけの存在が。

 和室につながる襖に視線を向ける。

 その向こうにいるではないか。

 要介護の義母が。

「給食にセミの死骸が入れられてて、食べるまでみんな許してくれないの」

 食事に少しずつ殺鼠剤を混ぜ、致死量を見極める。

 義母さえいなくなれば、介護の負担から解放される。その上、このマンションの一室も手に入る。もう少し貯金をしてからマンションを売り、夢のマイホーム購入だ。ウォークインクローゼットとシューズクロークのある新居での生活。

 思わず笑みがこぼれる。

「クラスの女子がみんないる前で、パンツを脱がされて」

 しかし、義母に毒を盛るなんて、さすがに怪しまれるのではないだろうか。

 介護する側とされる側。動機は簡単に見透かされてしまう。

「先生に言っても、みんなと仲良くする努力が足りないって言われて」

 しかし、要介護の老人が自宅で亡くなったからって、そんなに問題になるだろうか。

 それこそ、中途半端な状態ではなく、完全に心臓が止まってしまえば、事務的な処理だけで終わっていくのではないか。病院だって警察だって忙しいんだから、いちいちこんな一般家庭に関わっていられないだろう。

 みんなきっと、空気を読んでくれるはずだ。

「今日だって、帰りに学校のトイレに行ったら、みんなが水をかけてきたの」

 襖の向こうから、甲高い金属的な声が女を呼ぶ。また、義母の排泄介助だ。

 いつもであれば心底うんざりする瞬間だが、女は高揚していた。

 気が滅入る介護も、もうすぐ終わる。むしろ、これからが勝負だ。義母に疑念を抱かれないように慎重に事を進めないと。

 そして四階の老婆を排除し、自分たちの住環境を守らなければ。

 みんなに、それを求められている。

 私には、それがわかっている。つまり、空気が読めている。

 その使命感が、女を高揚させていた。

「それでね、一番楽しそうにホースを持ってボクに水をかけてるのが、アポロくんだったの」

 そう言いながら、息子はこらえきれなくなったように泣き出した。

 しかし女は、そんな息子に目を向ける余裕などなかった。

「みんなは何を読んでるの? ボクには何も読めないよ」

 息子はすでに号泣していた。

 襖の向こうから女を呼ぶ義母の声は、さらに甲高くなった。

 しかし、女の耳には何も届かない。

 それどころか、わずかに漏れ出していた。

 女の口からは、密やかな笑い声が。

「読めないよぉ! 空気に何が書いてあるか読めないよぉ!」

 叫ぶような息子の声。

 叫ぶような義母の声。

 それらをかき消すような女の高笑いが、築三十年を越えたそのマンションの一室にいつまでも響き続けていた。

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