【短編小説】空気に何が書いてある(7/10)
静かな朝を、女は迎えた。
ここ最近では経験したことのないほどの穏やかな朝だ。
すでに夫は一人で食事を済ませ、出勤している。
女は夫によってカーテンの開けられていた窓から階下を望む。
そこには、普段であれば騒音の元となっていた何十羽ものハトやカラスが羽を広げて地面に横たわっていた。
死んでいる。
達成感のようなものが、女の中でゾクゾクと駆け巡った。
可燃ゴミ回収の日だったその朝は、ゴミ集積所でその話題がひそひそと飛び交った。
「鳥インフルか何かじゃないかって市役所が調べに来たけど、毒が撒かれてたらしいわよ」
「4階のおばあちゃんがやったの?」
「まさか。誰かがやってくれたのよ」
「みんなフンとかで迷惑してたもんねぇ」
「ホント、空気が読める人ってありがたいわよね」
手放しの、それは賞賛だった。
空気が読める人。
その言葉に、女の頬は思わず緩んだ。
私のやったことは間違ってない。むしろ、あれこそが正解だったのだ。
「4階のおばあちゃん、ハトの死骸を拾いながら泣いてたって」
「お墓でも作るんじゃないの?」
「庭もないのに、どうする気かしら」
「そもそも無責任なんでしょ。周りが迷惑してるのに、自己満足だけで餌あげてるんだし」
「ねー。ネコだって、自分の家の中で飼えばいいのに、野良に餌あげるだけだもんね」
「そうよ。まだネコがいるのよね」
まだネコがいるのよね。
充足感を噛み締めながら井戸端会議を聞いていた女の耳に、その言葉は天啓のように響いた。
やらなきゃ。
女は、自分のなすべきことをなすために、足早に帰宅した。
帰るなり、義母の下の世話、食事の用意と介助、家の掃除、洗濯などいつもの家事をこなした。
いつもであれば吐きそうなくらい面倒で陰鬱なそれらの作業も、その日は清々しさすら感じながら片付けることができた。
使命感にも似た高揚感。
そして女はせっせとウインナーに殺鼠剤を注入した。
玄関のドアがゆっくりと開いた。そういえば、玄関の鍵をかけ忘れていた。たまにはそういう日もある。声もなく、息子が帰ってくる。もうそんな時間か。女は驚きながら顔だけを廊下に向けた。
「おかえり」
「………」
しかし息子はリビングに顔を出すこともなく自分の部屋へと入っていった。
体調でも悪いのかしら。
そう思いながらも、女は作業の手を止めることはなかった。
そういえば今日は、おやつの用意をしていない。
気付いて女は息子の部屋を覗いたが、息子は部屋の電気も付けないまま布団に潜り込んでいた。
「どうしたの? どこか痛いの?」
「……ううん」
眠いだけなのか。
「夕飯の時間に起こすからね」
そう声をかけ、女は部屋のドアを閉めた。
女にはやるべきことがある。布団から出ようとしない息子を一顧だにすることもなく、女はキッチンで作業を続けた。
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