好きこそものの上手なれ、のわたしの解釈
「好き」ってなんでしょう。どういうことなんでしょうか。
これは一人一人違っていていいと思うが。
わたしにとって「好き」っていうのは、とっても好きでやめられない!と思ったり、好きな気持ちは変わらないけど今はやりたくないなあと思ったり、やっぱこれなんだよな!と思ったり、そのすべてのように思う。
人に対しての好きも、仕事に対しての好きも、食べ物に対しての好きも。
わたしが今「好き」という言葉を聞いて思い出すのはそういうゆらゆらしているもの。
案外それでいいと思ってる。
ずっと好きでいるなんて大変じゃない?つらくない?
それならそのぐらいの適当さと軽やかさがあってもいいんじゃないか。わたしはしばらくそう考えてる。
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これからのわたしは、これまで3年ぐらいやってきた「好き」なことを仕事にしていく。
これまでも、うおーやるぞーとなった日もあったし、もう絶対やってやんないわ向いてないとなった日もあった、その仕事。
それを今振り返ると、その奥底には興味と愛が絶えずあったと思う。
だから仕事にしていいと思った、してみたいと思った。
そういうことを生業にするとどうなるのか、試してみたかった。
試してみたいと言ってその仕事を自分の暮らしのメインにできるのは、なんと言ってもその恵まれた環境の賜物だ。
やりたいと言ってやらせてくれる人がいること。
やってみなよとどんと構えてくれる人がいること。
いいねそれ、と言ってくれる人がいること。
失敗しても帰る場所があること。
家族が実家で健康でいてくれること。
いとしのもふもふうさぎさんも健康でいてくれること。
立って歩けて食べ物を食べられる健康な体があること。
試してみたいと思えるマインドを作ってくれたコミュニティがあること。
人は育てるのは環境だ、みたいなことよくいうけど本当にそうだ。
自分から湧き出たものなんて一握りも、ひとつまみもないのかもしれない。
だからこそ、こんな僥倖に甘ったれることなく盗めるものがあれば盗んだるよおという姿勢でいなければならない、幸せは一瞬、という可能性もある。
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最近次の職場の人と会議に参加したり、その関連の知り合いと話したりすることが多い。
例に漏れずどの人もにこやかでウィットに富んでいる、それでいて誰にも知られるまいみたいな青い炎がじっと灯っている、そんな感じ。
そしてここでわたしが盗めるものと言えば、所作と物言い。
この人話しやすいだろうな、と思った人は必ず話している人の目を見て笑顔を浮かべて聞いている。
話がわかりやすいな、と思った人は余計に話しすぎていない。
そういうなんてことないことを真似することでしか、この弱冠24歳のわたしは成長できないんだと思うし、自分がこうなりたい、と思った人にしか慣れないんだと思う。
好きこそ物の上手なれとはよく言ったものだ、天才か。
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いつだってわたしの原動力は好きっていう気持ちなんだろうなあ
好きに形を持たせることなく、動いて変わっていくことを理解して。
自分が自分の最大の理解者でありますように。
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