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インターネットがなければ小説なんて書かなかった

得意科目は国語だった。小学校三年生のとき、詩を書いて、なんだかふわっとした高揚感を味わったもののそれを吟味することはなく、ただひたすら家と学校と図書館と本の世界を行き来する日々だった。

ある日我が家にパソコンがやってきた。
中古のMacintosh。父の知人のお下がりだ。
「情報」という科目がようやく授業に組み込まれるようになった世代の私は、その画期的な道具であり玩具に夢中になった。
しかし我が家のそれは、文字を打ち、絵は描けても、インターネットはまだできないという。
ふうん、そうなのか、つまらないの、と、あっという間にその巨大なコンピューターは八畳間のリビングを圧迫するガラクタの山と化した。

さて、インターネットに繋がるようになったのは、そのすぐ後だったか、それともしばらくして二台目のお下がりのパソコンがやってきてからだったか。
中古の新しいMacintoshは再び高級な玩具に格上げされた。

インターネットという広大な海をたった一人で冒険できるほど、当時の私に知識はなかった。Yahoo!を拠点に、好きな本や漫画やアニメのことを検索して、ファンアートを見たり、感想を読むのが楽しかった。インターネット上には独自のルールがあるのも、いろんなところを見ているとなんとなく感じ取れたから、とりあえず読むだけで満足していた。
お話が読める、と気付いたのもそのときだった。二次創作と呼ばれる作品の数々。ずっと好きだった作品が、別の形で広げられているのを目の当たりにして、なんだか不思議と、胸がどきどきした。

だから、誰か、自分だけの物語を書いている人はいないだろうか、と思ったのは自然なことだったと思う。

日曜日。家族がまだ起きてこない早朝は、パソコンを独占するのに絶好の時間だった。朝のしんとした空気の中、深く考えず、思いついた言葉を検索ボックスに入力した。

「ファンタジー 小説」

そのとき出てきたのは、魔王と姫君のお話だったと思う。
この世に本がない、インターネットにしかない不思議な存在感を持つ物語の、長いお話の途中であろうそのページを読んで、思った。

インターネットって、自分の書いたお話を発表してもいいんだ。

その後父親が「ホームページが作れるぞ」とソフトを持ってきたこと、妹が日常的に巧みに絵を描いていたこともあって、私は物語を書こうと思った。

初めて最初から最後まで考えた物語を文字に起こし、公開するために必要なものを調べた。
誰に聞かずとも、インターネットにはいろんなものがあった。わからなくとも、わからないなりにやってみて、それがどのように使えるのか考えて、知っていった。
調べれば調べるほど、多くの人が自分自身が書いた物語を公開し、様々な形で演出し、読んでもらおうとしていることがわかってきた。htmlタグサイト、素材サイト、音楽素材サイト……それをサポートするサイトの数も、膨大だった。

私の最初の物語は、物語の形を成していなかった。
それでも優しい人たちが言葉を残していってくれた。読み合いの文化の恩恵だったけれど、そこにあった「喜んでもらおう」「傷つけないようにしよう」という思いは本物だった。

もっと、上手くなりたい。
面白い物語を書きたいと思った。

インターネットで興味のある事柄を調べ、紙の本で詳細を読み、紙の本ではわからない道具や景色についてインターネットで検索した。
ネット上で活躍する好きな書き手さんたちの作品を読み、泣いたり、笑ったりして、その思いを拙いながらも一生懸命に綴って、送った。礼儀正しいメールの書き方やメッセージの書き方は、親も先生も知らないから、インターネットを頼った。作者さんに怒られはしないか、嫌な気持ちにさせはしないか、送信ボタンをクリックする手は、いつも震えて冷たかった。
携帯電話を持っていなかったから、フリーメールのアドレスだけが私の小さな交友関係を表していた。普段新規のメッセージなんて滅多に届かないそこに感想を送った方からお礼の返信が届くと、泣きたくなるくらい嬉しかった。

インターネットに居場所があった。そこにいることを許された。
だから物語を書くことを続けてこられた。

脆かった私の物語が、少しずつ、本当に少しずつ、なんとか崩壊しないだけの形を成していくのに、十年以上かかったのではないだろうか。
ものすごく書くのが苦しかった作品もあるし、楽しかったものもある。個人的に気に入っているのに評価されなかったり、思いがけずたくさんの人に読まれた作品があったり、一個人に海の波がコントロールできないように、本当に予測できないのがこのデジタルの世界だった。

そこでは様々な変化があり、私がインターネットの海に飛び込んだときよりもずっともっと広く、果てしないほど広く、混沌としたものになったと思う。よいニュースよりも悪いニュースの方が目につくようになり、互いに見えない、触れないようにしてきたもの、交友関係や評判が、作品の巧拙に直接繋がっているように思えたり。

きっといま、インターネットが、S N Sがあるから、創作することが苦しいという人たちがたくさんいると思う。
普段平然としていても、私も、いつも怖い。面白くない、楽しくない、つまらない、そんな作品を放流することで傷付くことはないか、自らが無価値と思えてしまうようなことにならないか。上手い人たちが大勢いて、その一人になれないことに絶望してしまわないか。

筆を折りたくない。
書き続けていたい。

そう願うなら、この混沌とした海から逃れてしまえばいいのに、それができない。

だってインターネットがなければ小説なんて書かなかった。

一ヶ月、長ければ一年かけて、不完全な物語を書くのは、いつか読んでもらえるかもしれないという希望がそこにあると知ったからだ。
鉛筆と原稿用紙に向かい合うよりも手軽に文章を綴り、足りないところを途中に足し、不必要な部分を消し、あるいは書き換えることができるのはパソコンがあったからだ。簡単に公開できる環境がなければ、感想をもらうことも、書き手として認めてもらうこともなかった。
読まれない小説に価値はないなんてまったく思わないけれど、私が認める価値に+1、+1と見えない尊さを少しずつ高めてくれるのが、インターネットを旅する読者の人たちの存在だった。

マストアイテム、という言葉の持つポジティブなイメージばかりではないけれど、インターネットがあるから小説が書けている。

それはいまも、この文章がここにあるのと同じだけ確かなことなのだ。

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