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「メールの文面が冷たい」と言われた私のいま

電子端末を手に生きるこの社会で、メールの文面について悩んだ方は限りなく多いと思います。

即レスだとか既読スルーだとかどこから生まれたのかわからない制約に雁字搦めにされて息ができないとか、反射的にレスしたけれど言い方がまずかったと後から気付いたりとか。

私はメールの文面が冷たいと言われる人種の人間でした。
いくつか心当たりはあるのですがだいたい「方言を使わない」「あまり絵文字・顔文字は使わない」「おおよそ長文」といったことが原因だったと思います。

私は十代ですでに個人サイトを持っていたので、ブログ等では普段から「です・ます調」で標準語を使うように心がけていました。
すると日常的な友人知人とのやりとりでどうにも方言を使うことに違和感を覚えてしまったんですよね。それでメールもいつも標準語でした。

そして性格上、短いやり取りをだらだらと続けるのも苦手で、メールを送るときは用事があるときにして、本題がわかるように書くようにすると、自然と長文化するんです。

またネット文化の方に長く染まっていたので、絵文字が得意でなく顔文字の方が親しみやすいけれど、あまりネットに詳しくない友人知人が相手だと顔文字を悪く受け取られる可能性が高い、と思っていました。

その結果「メールの文面が冷たいよね」と言われるようになったわけです。

十代から二十代にかけては私もとんがっていましたから「それの何が悪いの? 別に冷たくしているわけじゃないからいいじゃない」と思っていました。

ただ、社会に出て出会いが多くなり友人が増えると、メールの書き方がそれぞれだということを知って、面白いと感じるようになりました。
そしていつしか、これは個性の表現なんだと気付きました。
そうすると、いつの間にか自然とメールの文面を使い分けることに違和感を覚えなくなっていました。

絵文字を多用する友人には、絵文字がある方が伝わりやすいから絵文字をつける。
方言を使う人には、私も方言で書いてみたりなどして普段しゃべっている感じを思い出してもらう。
LINEが普及したいまはスタンプを多用する人もいるので、私も個性的なスタンプを返して、後で話題にしてもらったりする。
もちろん目上の方や仕事関係の方に対しては丁寧さに気をつけて、敬語で「です・ます調」で標準語です。

どうしてあんなにとんがっていたのか、いまならわかります。
人によって文面や印象を変えることで、自分を偽っているような気がしていたんです。

「私」を曲げることを嫌って頑なだったけれど、いまはどちらかというと相手の気持ちに寄り添うつもりで、先方に「わかりやすい」「伝わりやすい」表現を選ぶようにしています。
そうするとコミュニケーションが円滑になる気がします。誰も彼もがつがつ文章を書いている人でも読んでいる人でもないので、文面以外で読み取れるものがあるなら、できる人がそれに合わせた方がきっと楽だし楽しい。

こうした読み物を読む人に向けて書いているのでいまはこんな文章になっています。
こういう文章を量産している時点で私はなんか怖い人とか気難しいとか思われていると思うんですけれど、本質はただのネガティブ引っ込み思案おしゃべりなので、ダイジョウブコワクナイヨー。

なんにしても相手がいるやりとりは最低限の礼儀を尽くした上でお互いがわかりやすく気持ちのいい交流ができるように心がければいい、と開きなったのがいまです。
いま、なんですけど、ちゃんとできているか不安になることも度々あるので、失礼にならないよう自らを戒めつつ、良き繋がりを保っていきたいなあと思っています。


今日の進捗。
・書き物作業(1.5h)
・サイト更新。
・なろう・カクヨム更新。
・日記更新。
・note更新。
・インスタ更新(予定)

今日嬉しかったこと。
・金木犀の香りがする大好きな季節になってきた。
・頑張ってるねって上の人からジュースおごってもらった。

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