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渋沢栄一「論語と算盤」 立志と学問シェア会の気づきその②

こんにちは。
「論語と算盤」シェア会をしての気づき②を書いていきます。

前回の記事はこちらから

自ら箸を取れ

「自ら箸を取れ」
この章は「立志と学問」の中で一番印象的なフレーズかもしれない。それくらいこの章は印象に残っています。

どこでも優良なる人物なら、いくらでも欲しがっている。かくお膳立てをして待ってるのだが、これを食べるか否かは箸を取る人の如何にあるので、ご馳走の献立をした上に、それを養ってやるほど先輩や世の中というものは暇ではない。かの木下藤吉郎は匹夫から起こって、関白という大きなご馳走を食べた。けれど彼は信長に養って貰ったのではない。自分で箸を取って食べたのである。何か一と仕事しようとする者は、自分で箸を取らなければ駄目である。

渋沢栄一「論語と算盤」角川ソフィア文庫 P71

木下藤吉郎、つまり豊臣秀吉のたとえ話から、今でいえば主体性の重要性を語っていると思っています。この後も、何度か秀吉と信長の話がでてきますが、私は「自ら箸を取れ」という表現に共感します。

主体性と似ている意味かとは思いますが、主体性という言葉よりも、この「自ら箸を取れ」という方が個人的にしっくりくるし、なぜか燃えます(笑)

つい日常の中で、いつの間にか「自ら箸を取れ」ということを忘れてしまうことがよくある。だからこそ、自分の中でこの「自ら箸を取れ」という言葉は忘れないようにしよう。常に心がけたい言葉でした。

立志とその主体について

この章が「立志と学問」ということもあり、「立志」について語っているパートが非常に多い。さらに渋沢栄一が言うからこそ凄く説得力を感じたし、あらためて「志」を立てることの重要性を感じる。

では志をどう立てるのか?につい意識がいってしまうが、私は「どんな自分が」に注目することが志を立てるよりも重要だと思っている。

どんな人間になって何をするか

人生とは、どんな人間になって(人)、何をするのか(生)である。と令和哲学者NohJesuはよく言っている。特にどんな人間になっての所は、実はほとんどの人が意識せずに、何をするのか?を考えやすい。何をするのか?には「志」も含まれてると思っている。

例えば、何か「志」を立てたときに、どんな人間になってを見落としてしまうと、無意識に「志」に対して過去の経験体験からくるあきらめ、無意識の自分自身への決めつけというのが邪魔をしてきてしまう。

「志」を立てることも大事だし、同時にどんな人間になって?、詳しく言えば「自分自身をどう思うのか?」のアイデンティティもそれ以上に重要である。私はこれをセットで行うことが「立志と学問」を読んであらためて思いました。

以上です!

最後までお読みいただきありがとうございました!



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