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細部(ディテイル)にしか神は宿らない

ドキュメンタリーな文章を読んでいても「いい余白」があるかどうかで読み続ける気になるかどうかが決まる。極端に言えば「何について書いてるか?」よりも「気持ちのいいリズムで思考が展開されるか?」の方が文章についても大事である。エッセーはそれが「味」であり全てみたいなものだから『誰々さんの文章が好き』みたいになるがドキュメンタリーでもその文章の味わいがかなりの本の魅力を占めている。
「何が書かれているか」と「どんなふうに書かれているか」
What? と How?
これが映像制作そして番組制作にも同じことが言える。

以前このnoteのどこかで「企画4割、演出6割」と書いて何人かの業界の友人から「僕もそう思う」と言われた。企画が「何をやるか?=What」で演出が「どうやるか?= How?」なのだが、実感的には最終的な出来上がりの良し悪しが「企画4割、演出6割」なのである。
ところがいろんな新事業とか新番組ってまずは「企画書は?」と聞かれる。ここで採択者が「企画4割、演出6割」だと知ってくれているといいのだがまあそういうことは少ない。
さらにこの演出って修行でしか身に付けられなかったりするので困るのだ。
料理に似ている。ある程度学校に行ったりレシピを見ると「ある料理」は作れる。でもトップオブトップって本当に料理人しかできない。カウンターからその手元に目を凝らしても特に秘密は見つからないのだが出てきたものを食べてみるとそれは明らかに他の普通の料理人が作ったものとは違っている。それはなぜか?それは細部(ディテイル)への徹底したこだわりでしかない。

テレビ制作なら大きいポイントとして撮ってきた素材を編集して一本のビデオに完成するという作業がある。このカットをどこで切るか?次のカットをどこから使うか?この編集点を見つけるのに1/30秒を行ったり来たりして「ここ」を見つける。ズレたところで1/30秒である。でも必ず「ここ」しかない点はある。それにこだわるか、こだわらないか?最初繋げた時は「ここ」だったが全体を通してみたら感情の澱みが見つかってもう一回1/30ずらして間を開けた方がいい時がある。それをやるかやらないか?または一発でそれを見抜くことができるか?編集点というのは一番組には何百箇所もあってさらに音楽のフェードの上げ方、テロップの色の淡さ、などを考えると何百万通りの選択肢を選んで決めて番組は作り上げられている。このディテイルをきちんと判断して作り上げているか?これがディレクターの力であり修行でしか身に付けられないものなのだ。料理人もどのタイミングでどれだけの高さから塩を振るのか?気温がこの時に茹でる温度は何度で何分なのか?そしてその人のこの料理は人と違う組み合わせでオリジナルになっている。それはどこか?そんな料理のレシピと同じように「見よう見まね」で番組らしきものは誰にでも作れる時代だ。でもトップオブトップの映像作品は一流のディレクターにしか作れない。そしてそれは間違いなくディテイルにこだわり抜いた、つまりその人でしか作りえないタイミングでの編集作業が何万と散りばめらえたものなのだ。

さらに言うとこのディテイルへのこだわりには研ぎ澄まされた感覚と恐ろしいほどの気力を支える体力がいる。これも一流の料理人と似ていると思われるところ。ジジイになるとここがキツくなる。

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