ブラジャーの話

 穏やかな4月の日曜日、未明の町を歩いていた。空気は少しひやりとして透き通っていた。
 僕は大通りから少し外れた、飲み屋と住宅が混在するところを歩いていた、その時である。裏通りに面したアパートのベランダが見える、その中に不審なものを見つけたのだ。

 それは、ブラジャーであった。ステンレス製の物干しざおに一つだけ、ほかの洗濯物もなく、その薄桃色のブラジャーはたった一人で静かに首を垂れていたのである。ブラジャーの相方たるパンツすらない。タオルもない。シュミーズもない。ストッキングもない。何もない、ブラジャーだけ。

 ここで一つ断っておきたいのは、僕は決して変態ではないということである。僕が関心をもったのはブラジャーの物質的存在そのものではなく、そこになんの随伴もなくブラジャーだけがぶら下がっている、という状況なのだ。

 状況説明を補おう。ブラジャーが下がっているのは地上4階のベランダである。ペンキ塗装が剥げた柵はみすぼらしいが、ここから確認できる限りではごみの放置もなくきれいなベランダだ。

 さて、なぜそこにブラジャーが一つだけぶら下がっているのか。ブラジャーが一つだけ下がっているというのは女性の生活感を感じさせない。ではここの住人は男なのだろうか? それこそ不合理だ。女性が下着泥棒を防ぐため男物の下着を干すという話は聞くが、その逆は聞いたことがない。

 八方ふさがり、完全な手詰まりだった。僕はこの問題を解決することを半ばあきらめながら、妄想を開始した。例えば、である。住人に聞いてみるというのはどうだろう? 
 通報するのは少し待ってほしい。これはあくまで僕が頭の中で考えているだけなのだ。実行はしていない。繰り返す、実行は、していない。

 住人は未明の訪問者に目をこすりながらドアを開ける。意外や意外、出てきたのは40歳くらいの、髪を短くした硬派な感じの男だ。「あっ、そういう人の家に来てしまっただろうか」と思いつつも、ここまで来たら真相を確かめずに帰れるものか、僕は単刀直入に聞く。

「朝早くに申し訳ありません。ベランダにブラジャーが1枚だけ干してあるという状況に不自然さを感じましたもので」
するとその男、途端にまじめな顔つきになって口を開く、曰く、彼は下着泥棒の犯罪心理を研究しているのだという。鍵かっこで引き写すと彼の知的な雰囲気が失われてしまうので、書き言葉にて、彼の話の梗概を記す。

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 下着泥棒はブラジャーやパンティーそのものに興奮を感じるわけではない。狙いがブラジャーそのものであれば量販店に赴いて合法的に入手すればよいのである。彼らが法を犯し、危険を冒してまで他人の下着を盗むのは、その下着が普段覆い隠している被害者の生活の一部を掠め取りたい、そういった欲望のためである。ひいては自分が下着を盗むことで被害者の生活に介入し、歪で醜いながらも彼女と一種の関係性をもつ、そのことに興奮を覚えるという側面もあろう。
 ここで「生活」という言葉を用いたのには重要な意味がある。下着泥棒どもは、一度ないし複数回使用された下着を手中におさめたとき、被害者の私生活に思いを馳せ情欲を昂らせるのである。シャワーを浴びる前に服を脱ぐ仕草、奮発して購入した下着をネットに入れる動作。戦利品を前にした下着泥棒はそういった生活のディテールを想起するであろう。かような妄想を可能にするのは、下着とともに干してある洗濯物である。ブラウス、バスタオル、寝巻、枕カバー、靴下、ストッキング、ハンカチ。下着泥棒の目は犯行時にカメラのごとく鋭敏に、妄想の原料を記憶するのだ。
 この説が正しければ、下着泥棒は単独で干してあるブラジャーには関心を示さないはずである。なぜなら、単独で干してあるブラジャーには持ち主の生活を想起させる要素がないからである。私は自説を証明するために、さまざまなシチュエーションを実験している。
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――ブラジャーを干していた男の談話

 僕はこの男の論旨に疑問を感じる。ブラジャーだけを干すシチュエーションも、十分あり得るはずだ。例えば洗濯物を干すときに、ブラジャーだけ干し忘れてしまうという状況。仕事から帰ってきた女は洗濯物を取り込み、ブラジャーがないことに気が付く。そして彼女は洗濯機の底からブラジャーを拾い上げ、手洗いして干す。そんな状況もあり得るではないか。

 僕がそう言うと、男は愕然とした。彼は自分の想像力の至らなさを恥じ、僕の論点を書き留めた。我々は次なる実験のため、意見交換の時間をとることに合意した。それで僕は彼の部屋に通されたわけである。
 第一にすべきことは、今や無駄な実験となったブラジャーを取り込むことだった。我々はベランダに出て、ブラジャーを盗もうとしていた不審な人物と出くわした。

 紙幅の都合により、我々と下着泥棒のその後の顛末はのちの機会に譲ることとする。

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