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24.グルメ

信仰度★★★☆☆

【グルメ:gourmet】
(1)美食家のこと。転じて、何らかの物事に深い造詣があり選り好みの激しい人物のこと。
(2)美食家が好んで食べる、または食べるにふさわしい料理や食材のこと。
『実用日本語表現辞典』より

昨日電車内で「グルメ博覧会」というイベントの吊り広告を見つけました。空腹も手伝って、気付けば食い入るように眺めて、顔をほころばせていました。不審者です。

「グルメ」とは、フランス語の「gourmet」を語源に持つ和製仏語だそうです。本来は食材や料理法も含め食に精通している人を指し、「高級食材を使った、手の込んだ」という意味の形容詞でもあるそうです。

日本語でも「美食家」など、同じような意味を持ちながら、現在では、「ご当地グルメ」や「B級グルメ」など、単に「料理」の言い換え語として、わたしたちの間で定着している言葉です。

参考「和製英語に気をつけよう(17) — グルメ」

と、前置きしたところで、今回は本来の意味での「グルメ」に関して、そこに向けられる神さまの眼差しに言及したいと思います。

グルメの適用は限定的に

繰り返しになりますが、本来の「グルメ」には、高級さという要素や、手の込んだこだわり、代替が効かない素材、などのイメージが付きます。

高級料理という意味でも、それを愛する美食家という意味でも、この世にグルメが存在して、それが料理文化を支えていることに疑いはありません。

もちろん美食の道に限らず、一つのものごとをとことんこだわって、妥協なく極める道はこの世にいく筋もあり、それぞれに道を極めた者の存在が、その世界を支えているという構図があります。

ところが、この「グルメ」は、料理に精通した一握りの者や、限定的な場面だから成立することです。例えば、一般の家庭の食卓にまで、グルメの理論を適用しようとすると、無理が生じてきます。

このことを、もう少し拡大させれば、私たちが日常的な人付き合いの場に、あまりに「グルメ」を持ち込むと、人間関係に摩擦が生じてしまいます。

すなわち、「私は〇〇な人間としか付き合いを持ちたくない」とか、「△△な相手の言うことは、たとえ立場があっても聞き入れない」という選り好みであります。

自らの分を超えて、人と接する心までグルメ一色になっては、そこに陽気ぐらしは成立しないのです。

麻と絹と木綿の話

天理教教祖中山みき様が、ご在世当時に、ある高弟にこんなお話をして下さいました。少し長いですが、紹介します。明治5年の話です。

「今日は麻(あさ)と絹(きぬ)と木綿(もめん)の話をしよう」
「麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれまでや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反故(ほうぐ)と一しょや。
絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高いけど、誰でも皆、ほしいもんや。でも、絹のような人になったら、あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもならん
そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、夏は、汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら、何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところまで使えるのが、木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで。」
『稿本天理教教祖伝逸話篇』「26 麻と絹と木綿の話」より

このようなお話です。
麻のように、長持ちせず、限定的な条件でしか力が出せない人。
絹のように、一見上品でも、お高く止まって付き合いにくく、そのうち時代に押し流されてしまう人。

こういうのは心の「グルメ」が過ぎるのです。結果として反故、つまり、人から頼りにされなくなってしまいます。

それよりも、木綿のように、ありきたりでも、相手に沿う心を持っている人は、長く重宝されて、結果として形がなくなるまで、大事にされます。

心の中で必要以上にグルメになってしまっていることを一つずつ脇に置いて、相手に沿った付き合いができる。そんな木綿の心に日々近づきたいものだと、吊り革にぶら下がりながら、思うのでした。

#エッセイ #毎日投稿 #宗教 #天理教 #麻と絹と木綿 #グルメ #世界の誰かへ


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