それでも優しさからはじめる
信仰度 ★★★★☆
0.近況雑記
このほど、親教会での青年づとめを終え、実家の教会に戻ってきました。
天理教では、私のような教会後継者を系統上位の教会に一定期間住み込ませ、教会の用事をさせながら信仰の涵養をはかる育成システムがあります。
私も大学を卒業してこの道に入ってからそのようなシステムに組み込まれ、7年の間お育てていただきました。
年に一度帰省していましたが、生活の場として実家に戻るのは10年ぶりのことです。
note更新を最近はさぼっ、ご無沙汰していましたが、青年生活で感じたことなども書き留めていきたく、今後は頻度を上げていけそうです。(言ったで…)
1.仏教書との邂逅
それはそれとして、ここのところはなかなか外に出てあーだこーだも叶いませんので、教会の雑務のかたわら、旅系のポッドキャストを聴いたり、仏教書をかじり読んだりしてました。
こちらを読んでいました。
仏教書、、
興味深いですね!
そんなわけで、現代における仏教の実存(寺院や経典、僧侶さんの存在と彼らの言動、実践)を下支える、ゴータマ・ブッダの思想を、ほんの少し覗かせてもらいました。
読む中で、仏教に対するこれまでの認識は随分浅かったなぁと感じました。思わずにやけてしまうような興味深い事実を知り得た一方、分かるような分からないような、理解が進んだような、余計混迷したような箇所も多く、常に不安と連れ添う読書旅でした。
私個人の信仰と仏教との間にある距離感を時折感じたものの、それもひとつのスパイスとして楽しむことができました。
この本の総論について言及するのは、ちょっと私には難しいというか、理解が追い付いていないので、ここでは、興味深く感じたこの書の各論の内の一つを紹介したいと思います。
2.「慈悲」と「優しさ」
この本では、あらゆる欲望を滅して涅槃に入り、悟りを開いたブッダが、なぜ死ななかった(生の状態を存続させた)のか、なぜその後衆生(しゅじょうと読むらしいっす、生あるものすべての意)を救済する伝道へと進んだのか、それを紐解いていくのが一つのテーマなんですが、その動機として広く知られる、ブッダの「慈悲」の心を筆者は取り上げます。
「慈悲」。
もともと仏教用語ですが、日常用語としてもそれなりに定着しています。そしてその場合、「慈悲」は同じく日常用語である「優しさ」と混同されがちであると筆者は指摘します。「慈悲」とは「優しさ」のことだとなれば、ブッダは「優し」かったから衆生に法を説いたということになるが、それは正しい理解ではないそうです。
実は、仏教用語としての「慈悲」には、行為者の内面において「捨(平静さ)」の態度が伴っていて、その点において「慈悲」は「優しさ」とは異なる意味を含んでいるというのです。
…うーんいったいどういうことでしょうか。
仏教用語の「慈悲」は「四無量心」と呼ばれる仏教徒の徳目の一部で、本来「慈・悲・喜・捨」とセットになっています。(今回ここ重要!)
「慈(衆生に楽を与えたい心)」
「悲(衆生の苦を抜きたいと願う心)」
「喜(衆生の喜びを共に喜ぶ心)」
とここまでは、「優しさ」が意味するところとだいぶ重なるのですが、最後の「捨」だけが少し毛色が違います。
「捨」とは他者の心の動きを中立的に観察し、それに左右されない平静さのことを言います。確かに、相手の喜怒哀楽に対して共感的に寄り添う意味合いを持つ「優しさ」とは異なりますね。
仏教の世界では、この「捨」の態度は悟らなければ獲得できないとも言われるそうです。我や他者に対する執着があるうちは平等な観察はできず、したがって「利他」の行いと信じてする行為も、そこに「捨」の態度が無ければ、それは「単なる「優しさ」」であり、仏教の「慈悲」にはならないというのです。
( 魚川祐司著 『仏教思想のゼロポイント』165-167頁「慈悲と優しさ」の項参照)
3.私の信仰に翻って「悟ってない状態の優しさ」問題
この問題について、仏教とは異なる信仰を持つ私も、しばしば類似した問題に直面することがあります。卑近な例示ですが、経済的に困窮した方に即時金銭を施すかどうかとか、困難を抱えた方に対して、その原因をその人の心に求めそれを指摘する時とか。良かれと思って人にしていた事が結果的には自己を満足させただけで、人の為にはなっていなかったとか。
うん、日常生活にもそんな場面ありますね。人間関係のトラブルの少なくない数が、こうした齟齬に端を発していそうです。
昔、自分の行動を利他行為だと信じて止まず、半ば暴走する方に対して、「君、それは「自分は人を助けているんだ」と思い込んでいるだけで、実は、「尊くも人助けをしている自分」という物語を消費しているだけなんじゃない?」と指摘した方がありました。
私に言われた場面でなかったのに、私にもその問いは深々突き刺さった、そんな経験があります。
信仰者を自認はしている。とはいえ、悟ったわけでも何でもない。おやさまを慕いつつも、慈悲の態度もはっきりとわからずに彷徨う私たちはいったいどうすればいいのでしょうか。
天理教徒なので、天理教のおやさまに聞いてみます。
おやさまは、神様の言葉を発する以前から、「慈悲深い」という表現で、その人となりが言い伝えられています。といって単に「優しい」だけでなく、仏教的「捨」を思わせるような、誰彼の状況に対してもきわめて平等的、平静的な一面もありました。まさに「慈悲」の体現者の一人でしょう。
そんなおやさまはこんなお言葉を残しています。
「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」
『稿本 天理教教祖伝逸話篇』一二三 「人がめどか」
この言葉は、おやさまが入信間もない梅谷四郎兵衛先生にお聞かせになった言葉と記憶しています。
「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」
この三つのお言葉の並びは、人間が成人するうえで踏むべき段階を示している、という悟りを聞いたことがあります。
すなわち、まず自らの優しい心というものを呼び起こす。次にその優しい心をもって人助けの行いをする。それを繰り返すうちに、己の良くない癖とか性分が次第に拭われていく、こういうことです。
この悟りのポイントは大きく二つあって、一つは癖、性分が取れるのはかなり後ろの成人段階(つまりむずかしい)ということ、もう一つは「優しい心」になることこそが先決で、これは本来誰でも取り掛かれる(人間だれしも兼ね備えている)ことだということです。
そういうわけで、あくまで暫定的な答えですが、まず自分なりに「優しさ」と思える言動を発揮してみること。はじめは、「それは「優しさ」ではない」という批判にも晒されうるでしょう。しかし、いつか本当に人を助けるようになるまで、優しさを発揮するトライ&エラーをやめないことが必要なんじゃないかと。
悟らなければ(癖性分が取れなければ)慈悲の境地には達しないからといって、その悟りを待つには多くの人間の生涯は短すぎます。
「自分なり」を崩してもらうことがこの道だとは思うのですが、まずその荒削りの「自分なり」を発揮して見せなければ、その崩しすら始まらないではないかってことをここに書き留めたかったのです。そういうわけでタイトルです。
皆さん良いお年を~
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?