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15.ツール②

信仰度★★★☆☆

前回の記事で、私たちの身体は道具であることを指摘しました。

もう少し具体的に話を進めます。

どこまでが「私」自身なのか

例えば私たちはふだん目で物を見ていると感じていますが、厳密には目は視覚情報を受け取る受容器であります。目が見ているわけではありません。目に映った像を脳が認識してはじめて「見る」という行為が成立します。

見ているのは「私」であり、目は「私」がものを見るための道具といって差し支えないです。

では「私」とは認識をする「脳」のことを言うのでしょうか。いやその脳だって認識するための器であって、やはり道具と言えます。

なんだか「私」と呼べるものの範囲がどんどん狭くなってきてしまいましたね。

少しわからなくなってきました。
一度視点を信仰的なものに移します。

天理教の世界観 借りものの世界

天理教の大前提となる世界観がひとつあります。それは「この世は神のからだ」ということ、そして、われわれ人間は「神さまのふところ住まいをしている」ということです。

だんだんとなに事にてもこのよふ(世)わ神のからだやしやんしてみよ 『おふでさき』三 40 三 135


身の周りにある大地や空気、自然の恵み一切は神さまのからだの一部であり、私たちはそれらを一部借りて、生きている(生かされている)ということです。

たしかに、この世のありとあらゆるものの中で、人間がゼロから生み出せるものはないのかもしれません。
種を撒き、水や肥料をやれば作物を作れますが、日光の恵みは必要ですし、育てる過程で必要な種や水や肥料とて、自然のどこかから借りています。

また、今日私たちは様々な物質にエネルギーを加えることで、多くのことを可能にして発展してきています。

鉄の馬を走らせ、摩天楼を建て、情報端末をつくり、人工知能を自律さすまでに至りました。ですが、それらもやはり物質とエネルギーをどこからか借り、運び出して、組み合わせることで、道具として完成させています。

私たちがしているのは、取り出して、運び出し、組み合わせるくらいなものです。そういった試行錯誤の末に今日の文明の恩恵があります。

この取り出したり、組み合わせたりは、私たちの身体がそれをしているのですが、その身体でさえ、神さまから借りていると考えるのが天理教的な発想です。

私たちは健康である限りこのからだを日常思いのままに使っていますが、そのからだは厳密には自分たち自身ではないし、自分たちの所有物でもないということです。

これは少し納得のいかない部分かもしれません。身の周りのものが借り物であることは、ある程度理解できることかと思います。
ですが、身体は生来私たちに備わっている道具ですから、「借りている」と言われても身に覚えのない話に思えるかもしれません。

この点、今回の文脈で説明する自信がないので、言葉を尽くして説明することはいったん見送ります。

とにかく、身の周りのものは全て借りもので、その借りている範囲は、突き詰めれば我がものと思っているこの身体にまで及ぶ。すなわち神のからだであるこの世界の一部を、この身体として借りている、信仰的にはそうだという話です。

逆に、神さまからすれば全ては貸しているということです。ここに貸し主である神さまと借り主である人間という関係が見えます。

この一連の話を天理教では「かしもの・かりもの」の話として語り継いでいます。

にんけんハみなみな神のかしものやなんとをもふてつこているやら 『おふでさき』三 41


再考 結局なにが「私」なのか

では、最初に戻ります。結局のところ私たち自身の本体はなにかということです。この身体を動かす随意的な主体はどこにあるのかということです。

身体までを道具、借りものとしてしまえば、なにをもって私たち自身の存在は規定されるのでしょうか。私たちに実体はないのでしょうか。

こういう時に、私たちは便利なことに言葉を知っています。実体がないものでも言葉を付け、名前を付けてその存在を規定しています。

身体が借りものであり、道具であるとして、それでもなお、それを動かす主体が存在することを私たちは無意識に知っています。

その主体のことを私たちは「心」と呼んでいるじゃないですか。

心だけは道具ではないです。誰にも(神さまにも)侵されることのない領域であります。誰も形を見たことがないけど、誰もが存在すると思っているのが私たち一人ひとりの心です。

ですから心というのは、身体をはじめ、身の周りのものを借りている主体のことであります。借り主とでもいいましょうか。私たちの本体です。

今回は天理教にだいぶ踏み込んで、どこまでを「私」というのか、その範囲を探るにあたり、借りものの世界観を紹介しました。
そして、道具ではない私たち自身と言える領域の存在を認め、それは私たちが日常「心」と呼んでいるものだという話をしました。

次回、その心が天理教でどのように説かれているかをもう少し見ていきます。

次回↓


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