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「主体的である」とは #44

「主体的」とは何か。
「主体性」とは何か。

最近の考えることだ。

分かっているようで分かっていない人も多いと思う。子どもを持つ親や教育関係に関わる人であれば、よく考えることではないだろうか。

きっかけは、公開研究授業をしたときのことである。

そもそも、私はあまり「あーしなさい、こーしなさい」と言うことが好きではない。割と自由に考えさせることを大切にしたいと思っている。(20代の若造が偉そうなこと言ってすみません🙇)

だから極力、生徒への指示を最小限にしたいと思っている。それが空回りすることもまだまだあるのだが。。

そして、公開授業(保健体育)。いつものように、子どもたちの会話を大切にしながら、子どもたちの活動にあまり口出しすることなく、見守るように観察していた。

授業が終わり、協議会が始まった。
たくさんの指摘があったが、無事終わった。
そして最後に指導主事の方からこんな言葉をもらった。

「先生、授業のとき、どこにいたか分からなかった」
「先生はもっと目立っていいんだよ」

自分にとって、青天の霹靂の言葉だった。
「もっと目立っていい?」
「先生がどこにいるかわかる授業?」

自分の考えていた教師像、授業像とは真反対の言葉だった。

研修の意義。これを実感できたように感じる。公開授業、研究授業はたしかに負担感は大きい。それでも、そこには自分では得られない気づきや学びは間違いなくある。

「主体的である」とはどういうことか。子供と関わりながら、時間はかかっても、少しずつ見出していきたい。

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