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【エッセイ】私のウイスキーボンボン観、もとい、

ウイスキーボンボンが好きだ。

ご存知かもしれないが、ウイスキーボンボンというのは、ウイスキーを砂糖の殻でコーティングした、液体を含む飴のような菓子である。砂糖の上からさらにチョコレートをコーティングしたものもあるが、私はウイスキーと砂糖だけで出来た、シンプルなウイスキーボンボンを好んでいる。

ウイスキーボンボンは、どこのコンビニでも買えるような菓子ではない。しかし決して、中々買えないほどに高価なものでもない。
大袋入りの蛍光色をした大粒のウイスキーボンボンもあれば、繊細な包装紙というおべべを着たすまし顔の半透明なウイスキーボンボンもある。いずれも私の好物であることに違いはない。それぞれに、それぞれの良さがある。

ところで、人と恋愛関係に進むという事象は、口の中でウイスキーボンボンを潰すという行為に似ていると思う。

まずは関係構築。ウイスキーボンボンというのは、砂糖の仮面を被っているから、その本性は初対面では到底図りきれない。
最初は、はじめまして、と舌の上でコロコロと転がして、スッキリとした香りからいい予感を感じ取る。
この時間は長ければ長いほどいいが、長すぎるのは禁物だ。最終段階に至るまで舐めきってしまうと、段階的に個体から液体への変化を味わうことになる。確信を持ってから変化に踏みきるというのは、保守的な長期戦で、どうもスリルを愛したいと願うせっかちな私の性分に合わないのだ。

かと言って、口にウイスキーボンボンを放り込み、ろくに最初の段階も味わうことなくさっさと噛み砕くのは論外だ。それは、ウイスキーボンボン、もとい、相手に対する尊敬がない。失礼である。もちろん、ウイスキーボンボンにおいてはそのような愉しみ方も良いと思うが、対人関係において性急に事を運ぶのは、私に言わせればナンセンスである。
相手がどのような風味なのかを予感して、舌の上で心の大きさ、形を推し量り、気持ちを大事に育てたのち、いい頃合いで頂くのがマナーだと私は勝手に思っている。

そして、私は、舌の上で育てたウイスキーボンボンを噛み締める瞬間が、恋が成就する瞬間が、いっとう好きなのである。
まだ、外皮のカリッとしているところに歯を突き立て、出来るだけゆっくりと歯を侵食させていくと、突然、ウイスキーが弾け出して、じゅわりと味蕾に浸透していく。その芳醇な香りが鼻腔を駆け巡る。そしてゆっくりと、それを嚥下することで、それは己の一部になってゆく。私はその余韻に、ほんのりと酔いしれる。その余韻は、長ければ長いほど好ましい。
それが例え、美味しくなくともよいのだ。口の中に広がる安酒の酷い味は、しばらく舌を痺れさせて、なかなか忘れることが出来ず、厄介なものではあるが、歯を突き立てるまでの記憶は確かに愉しいものだからである。
もちろん、美味しかったらそれはそれで儲けものではあるが。

要するに、私にとってウイスキーボンボンも恋愛も、工程が大事なのだ。手に取った時のわくわくも、口に含んだ悦びも、私の人生を豊かにしてくれる。

だから私には、ウイスキーボンボンというものは、一度にひとつしか口に含んではならないというマイルールがある。
複数個いっぺんに食して、口の中のアルコール度数を一気に高めるのは、愉しそうでもあるが、禁忌なのである。
すぐに歯を突き立ててはいけないと先述したのと同じ理由で、ウイスキーボンボンには、出来るだけ敬意を持って、誠実に向き合わなければいけない。

これが私の、ウイスキーボンボン観、もとい、恋愛観である。
…がらにもなく、ちょっと格好をつけすぎてしまった。
私はまたも、酔っているのかもしれない。


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