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クマに人気の老舗レストラン

「よかったら森にカメラを仕掛けさせてもらえませんか?」
飛騨高山にあるコーヒーショップの店長で、在野のクマ研究者でもある安江さんが僕にそう言った。
安江さんは学生時代に岩手でクマの生態の研究をしていた。「以前はよく東北の森に調査に入ってたんすけど。せっかく今森に囲まれた飛騨にいるのに、仕事がら森に入ることがないんです」
僕らの会社は20ヘクタールの森を持っている。それを知った安江さんから、そこに野生動物を撮影するセンサーカメラを取付けたい、と相談されたのだ。

僕だって自分の森のクマのことを知りたいのでありがたい。
6月の日曜日の朝。安江さんと一緒に小雨で霧がかった幻想的な風景の社有林に入った。安江さんはあまり奥だと回収が大変だからと、森の入口に近い山道の横に生えている太い杉の木にセンサーカメラを括りつけた。
それから2人でさらに森の奥へ進む。道のない急な斜面も、腰のベルトに鉈とクマ鈴を付けた安江さんは慣れたものだ。しばらく歩いてブナの木が生えている場所にくると安江さんが言った。「このあたりにはクマがたくさん来てるっすね」
よくみてみれば、そこらのブナの木の幹にはこれまで僕が気づかなかった傷がついている。この傷は、クマが秋に好物のブナの実を食べるために木登りをした爪の痕。秋だけではなく春には新芽も食べにくることもあるのだそうだ。
その中のある一本のブナの木には、幹一面にびっしりと爪痕がついていた。
爪痕には古いものも新しいものもある。昔からたくさんのクマが食事のためにこの木に登ってきたというわけだ。安江さんも1本の木にこれだけ爪痕があるのはみたことがないと喜んでいた。

まるで、行列のできる人気の老舗レストランのようなブナの木。
僕はクマたちがその木の前に行列をつくって並んでいる様子を想像した。

実は、その爪痕だらけのブナの木は、僕らが伐ってしまう予定の木だった。
この森は60年前に一度全部の木を伐ってそのまま放置されていた広葉樹の二次林。林業の世界では「雑木林」とか「非経済林」と言われている。手入れをしてもわりにあわないので、放置したままか、木を全部伐ってチップにしてしまう。それではいい木も育たないし、次に木を収穫するまでまた長い時間が必要になる。
そこで、この森では、育成木施業(いくせいぼくせぎょう)という森の手入れをしようとしている。「育成木」とは将来価値が高くなるはずなので残して育てる木で、その育成木の成長の邪魔になる「ライバル木」を伐る。
その爪痕だらけのブナの木は、「木材としては価値が無くて邪魔な木」なので、ライバル木の候補になっていた。

だけど、安江さんの話を聞き爪痕をみた僕は、このブナの木を伐るのをやめた。
ある街の再開発で家主から立ち退きを求められたお店が、そのお店を愛する常連客達の訴えによって立ち退き撤回になったように。この森で(山主の経済合理性に基づく判断によって)伐られる予定だった木は、クマの研究者の視点によって残されることになったのだ。

林業の専門家は、「こんな奥山で急な地形の森ではとてもコストがあわないですね、良い木もないし」と絶望的な顔で言う。安江さんは、「この森は動植物の種類がとっても豊富で、クマや他の生き物にとって暮らしやすい良い森っすね」と幸せそうな顔で言う。

後日安江さんが回収したセンサーカメラには、あのブナの木に行く途中なのだろうか、山道をのんびり歩く若いツキノワグマの姿が映っていた。

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