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時の絆創膏

 昨今はレトロゲーム市場が熱気を帯びている。リマスター版の発売が相次いでいることからも、昔のゲームがいかに優れたものだったかがわかる。私も三十代後半あたりから、最近のゲームに妙な居心地の悪さを感じるようになり、たびたびレトロゲームに逃避している。
 古いゲームをプレイしていると心地よい。「あの頃」を思い出す。しかし時々、自分でも気づいていなかった「あの頃の自分」に出会うことがある。
 昨年のことになるが『クロノ・クロス:ラジカル・ドリーマーズエディション』をプレイした。きっかけの一つは、セールで安くなっていたこと。
 私は完全なるパッケージ版派であるが、ダウンロード版しか販売されていないのであれば、仕方なくそちらを購入する。たびたびセールがあるので定価では買う気にならないというジレンマに陥ることもしばしばあるが、これはこれで便利だと、最近ようやく思うようになってきた。
 もう一つのきっかけは、私の中にあった「謎」である。
 
 『クロノ・クロス』が普及の名作と謳われていることは言わずもがなである。私もそう思っていた。しかし、どこが名作なのかと聞かれると、返答に困ることに気がついた。
 なにしろ、BGMしか覚えていなかったのである。
 オープニングテーマ曲『CHRONO CROSS ~時の傷痕~』は文句なしの名曲であり、その印象が強いことは仕方がない。他にも前作『クロノトリガー』のメロディを取り入れたフィールド曲や、妙な焦燥感を覚える通常戦闘曲、そしてどこか懐かしく、寂し気でもあるエンディングテーマソングなど、記憶に刻まれた曲は数多くある。
 しかし、一方で、ストーリーについては全くと言っていいほどに記憶がない。オープニングの映像は脳内再生できるほどに見ていたので、そこに映し出されるシーンや風景、キャラクターなどは分かるが、それらがどのような物語を紡いでいたのか、全く覚えていないのだ。
 そのことがあまりにも不思議で、謎めいているように感じられて、何かに導かれるように、私はふたたび『クロノ・クロス』の世界に飛び込んだ。
 
 プレイしてみた結果、その謎は解けた。思い出したというよりは、理解したと言ったほうが正しいだろう。
私がストーリーを覚えていなかった理由。それは、そのストーリー展開が「嫌い」だったからだ。
 無論、当時はそう思っていなかった。おそらく、複雑に絡み合う物語を理解しきれなかったせいもあるだろう。それでも、あの頃の私は何かしらの厭なものを感じ取って、記憶に蓋をしたのかもしれない。
 ストーリーについて詳細に触れることは避けるが、大まかに言えば「実は誰かの目論見通りでした」という話であり、私はそれが嫌いなのだ。
 数々の大冒険も、出会いも、別れも、喜びも、悲しみも、痛みも、苦しみも、興奮も、熱狂も、心地よさも、清々しさも、爽快感も、やり切れなさも、怒りも、困惑も、全てはこの結果を導くためのプロセスの一部でした。そんな馬鹿な話があるか。
 ゲームに登場するキャラクターが抱くそれらの感情を、体験を、プレイヤーである我々は、彼らの冒険という一編の物語の中で共有する。でも実は、同じ登場キャラである「ある人物」によって仕組まれたものでした。そんな馬鹿な話があるか。
 いや、あるのだろう。実際にこうしてあるのだから。そう言えば『ドラゴンクエストⅩ』の、ある一連のクエストにも同じような展開の話があって、やはりそれも嫌いだった。
 私は素直な性格ではない。それは自覚している。素直な人は、そのようなストーリーを「伏線がすごい!」と驚嘆できるのだろうか。
 しかしながら、私はこのゲーム自体を嫌いになったわけではない。確かにストーリー展開は厭なものであったが、ゲームとしては充分に面白いし、数多くの魅力的なキャラクターが登場する。そして結局、BGMが素晴らしいことに変わりはない。
 もう一度プレイして良かった。心からそう思っている。
 
 古いゲームをプレイしていると、時々こういうことがある。それは絆創膏を剥がして、傷痕を確認する感覚にも似ている。ちゃんと瘡蓋《かさぶた》になっただろうかと。
 何の痕も残らないくらい綺麗に治ったものもあれば、何十年経っても、治りきっていない傷もある。今回のように、知らず知らずに絆創膏を貼っていた傷に出会うこともある。どんな傷であっても、必ず、今の自分があの頃の自分に出会う。それは、前に進むことに他ならない。
 最近のゲームに疲れたら、またレトロゲームの世界に探しに行こう。
あの頃に貼った、時の絆創膏を。

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