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自己肯定感を考える

私が聞いている音声配信界隈で、最近自己肯定感の話をよく聴く。そこで、自己肯定感は高すぎるのも考えものでは?と言った意見があることを知った。高すぎる自己肯定感で自己中に振る舞う人がいるらしい。少し違和感を感じながらも、なぜだろうと考えた時、私の考える自己肯定感と、世間で認識されている自己肯定感の意味は違うのではないか?ということに気がついた。

なぜなら、私が考える自己肯定感の定義だと、自己肯定感がどんなに高くてもなんの問題もないはずだからだ。以下は私の解釈だ。

自己肯定感が高いということは…

  • 自分を無条件に肯定することではない。

  • 自分の強みや弱みを理解し、それを受け入れている状態のこと。

  • 自分を過度に誇示したり、他人を見下したりしない。

  • 他者との健全な関係を築き、自分の意見も他人の意見も尊重することができる。

  • 客観的に自他を捉えられることで、他人のせいにしたり人と比べたりしない。よって精神も安定している。

これらの意識が高くてもなんの問題もないはずだ、と私は考える。だからこそ、過度な自信に満ち溢れるあまり、自己中心的な態度や自分の意見を押し通すような人間は自己肯定感が高すぎるのではなく、ただの自信過剰と歪んだ自己愛に溢れた厄介な人間だと私は思っている。

間違っているのかな。。。今書きながら検索してみた。こんなサイトを見つけた!まさにこれこそが、私が考えていた自己肯定感だ。

日本セルフエスティーム普及協会なんてあるんですね。でも、自己肯定感ってself-esteemなの?と、ここでまた引っかかってしまった。なぜなら、心理学のself-esteemというのは、自己肯定感というより、自尊心や自己評価のはずで、それこそ”高すぎる”self-esteemというのは、自分のスキルを過大評価し、他人と比べて優越感にひたるような不健全な心理状態だ。

となると、自己肯定感=self-esteemではなく、self-esteem(自尊心・自己評価)がバランスよく保たれた最高の状態。上記のリンク先で説明されているhealthy self-esteemこそが、自己肯定感なのではないか?私の勝手な解釈だけど、それならば納得できる。

自己肯定感を考えた時、外国人の自己肯定感の高さと比較されたりすることで、どうしても海外からきた定義の日本語訳に思ってしまいがちだが、この言葉は単純な翻訳ではなく、どうやら日本の方が作られた言葉らしい。日本人の伝統的な価値観や特性に苦しめられている人たちを救うための、日本人による日本人のための概念ということなのか。

話は変わるが、外国人の自己肯定感が高い説は、本当に本当で、私も過去にとんでもなく自己肯定感が高い人々と出会ってきている。20年以上前、私がオーストラリアで大変お世話になったご夫婦がいた。そこのおじさんが本当に、びっくりするくらい自己肯定感が高くて、私もだいぶ励まされたので思い出話を一つ書いておきたい。

おじさんはオーストラリア人にしてはとても背が低く、太っていて、禿げていた。要するにイケオジでは全くない。でもとってもチャーミングで、面白くて、明るくて、優しくて、いつもみんなを楽しませてくれる人。気遣い上手で、リーダーシップのある、太陽のような人だった。

彼はいつも私を気にかけてくれいて、
「君はいつも笑顔だけど、どうしてそんなに自信がないの?」(そう、私はそれなりに感じよく社交的にできる人なのだが、若い頃は特にその自信のなさが外国人にはよくバレていた。)
「良いこと教えてあげる。僕はね、毎朝起きて鏡で自分の顔を見る時、鏡の自分に言うんだよ!NOBODY is better than YOU!って。だって事実でしょ?!君もやってみて。全世界の人がやってみるべきだね、だって言葉の通りだから。他人は関係ない、自分がどう思うかだよ!」と。

8年くらい前、このご夫婦が日本に遊びに来て再会した。すでに80歳くらいになったおじさんに、あの話覚えてる?と聞いたところ、「もちろん!だって今でも毎日やってるよ!僕は自分が大好きだよ!」と満面の笑顔で言っていた。可愛いおじさん、その1年後くらいに癌で亡くなってしまった。自信をなくした時、不安になる時、おじさんの顔がよく浮かぶ。流石に私は、Nobody is better than youと、鏡の自分に言う事には抵抗があるのだけど、そんな風に思ってあげても良いよね、とは思っている。

この言葉自体はかなり傲慢ではある。使い方には絶対に気をつけないといけない。仮に人前でNobody is better than Me! なんて言うような人間がいたら最低だ。でも、そう言うことではないのだ。あくまでも、鏡に映る自分自身への激励。Nobody is better than YOU!と鏡の自分に生涯言い続けたおじさんは、他人を見下したり、自分の方が偉いとか、正しいとか言う横暴な人では全くなかった。おじさんは、本当に愛に溢れた優しい人だった。

だから、そんな彼に育てられた子供たち、その子供たちに育てられた孫たちもまた、当然ながら自己肯定感が高いのだ。毒親が連鎖するように、自己肯定感もまた連鎖する。私は毒親の連鎖は完全に断ち切ったつもりではある。だが、自己肯定感が無いような子供だった私が、自己肯定感の高い人間に我が子を育てるのはそれなりの課題で責任の重さも感じる。そこで必要となるのが自信なのかもしれない。おじさんの言葉を思い出し、鏡の中の自分を激励するのは今なのかもしれない。


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