難病になった喜劇作家の"再"入院日記1「再燃」
某月某日
皮膚筋炎が再燃した。
診断を聞いた瞬間、足元の床が抜けすーっと真っ暗な奈落に落ちていく。
正直、直近2カ月ずっと調子が悪かった。嫌な咳き込み。体が重い。続く微熱。鎮痛剤が手放せない。
一回目の、あのときのあの感じと似てる……
不安は常に脳裏をよぎっていたが「再燃」とは結びつけたくなかった。
月一の血液検査ではまだ炎症反応は出ていなかったし、徐々にプレドニン(ステロイド)量も減って(8mg)、寛解に進んでいると信じていた。
仕事においても。
前回の退院からリハビリを経て、半年かけてようやく従来通りに戻りかけてきたのに、またここで中断なんてしたくなかった。
何より家族のこと。
息子が産まれてすぐの発病で妻には大変な苦労をかけた。一年経たずにまた――と思うと、どうしても受け入れるわけにはいかなかった。
*
息子は現在、1歳4カ月。
私も晴れてようやく家族の一員として日常生活に復帰し、彼の成長を間近で見てこれた。
寝返りが初めてできた瞬間や、ハイハイを経て立っちが出来るようになっていく過程、「パパ」と呼んでもらったときの感動は一生の宝物。
同時に子育ての大変さも知った。特に子供が病気になった場合の過酷。
私自身が免疫抑制剤により抵抗力が落ちているため、息子が感染したその数日後にはもれなく同じ病気をもらい受けた。
医師から注意するように言われていたけれども、実際に目の前で子供が咳き込んだり吐いたりうんちがゆるかったり……その後始末で飛沫に触れてしまうことは否が応でも避けられない。
手足口病、ヘルパンギーナ、特にロタウイルスに罹患した際は、子供以上に悲惨だった。下痢と嘔吐。汚い話だがもうどうなっちゃうの? ってくらい、上から下から止めどなく水分が溢れ、トイレに丸一日籠りっぱなし。
難病の諸症状より辛い。肺炎等の致命的な病気に発展せずにこれたのは不幸中の幸いだった。
妻も働かざるをえなくなったため、春から息子を保育園に通わせることに。
近所の保育園は人気で落ちることが予想されていたので、他の地域も見学させてもらい、良い印象の所に片っ端から入所申請を出した。
入れた保育園の近くに引っ越すという荒業で乗り切った。
こうした日々の子育てや仕事、生活環境を変えるドタバタが、もともと少ない私の体力を奪い、疲弊させ、抵抗力をさらに弱めたのかもしれない。
慣らし保育が始まり、妻の職場復帰も見えてきたある日。
ついに私の体は痛みで動かせなくなり、寝たきり状態になってしまった。
急遽、病院に連絡を入れ診てもらう。結果は即入院だった。
*
通常のベッドに空きがなく、追加料金一日8,000円の特別個室に入る。
空きが出たらすぐ大部屋に移してもらうようお願いし、前回と同じくエンドキサンパルスを開始した。
体に入っていくステロイド点滴……いつかも見た光景だ。
――どうしてこうなってしまうんだろう。
――贅沢なんて少しも望んでないのに。
――ただ家族と一緒にこの大切な育児期間を過ごしたいだけなのに。
――どうしてそれが許されない? 妻一人にさせて、仕事、子育て、看病。
うちの生活は、家計は、家族はどうなっちゃうんだよっ!
答えの出ない質問を呪文のように繰り返す。
点滴はとっくに終わり、すでに逆血が始まっている。
それでもなお看護師を呼ぶ気力が起きず、ただ空のパックを眺め、絶望の底に沈むだけだった。
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